34 / 45
特別な日
バックミラー越しに見た顔が、少し疲れているようだった。
伏せた睫毛を時折億劫そうに震わせ、しかしすぐに気丈に前を向く。背中に定規でも差しているような隙のない背筋に、遠い記憶が重なって、消える。
「眠ってもいいんですよ」
声をかけると、ちらりと笑ったかもしれない。眉間をほんの少し寛がせるだけの、不機嫌そうにも見える微笑。年々、小さな所作やわずかな表情まであの人そっくりになっていく。
念のため市内を大きく一周して、自宅に戻る。
高い塀に囲まれた、錦鯉の泳ぐ池のある大邸宅だと思われていると、いつだか彼は笑っていた。事実、かつてはそんな家に住んでいたが、あまりに幼かった彼の記憶にはないだろう。セキュリティー面だけを考えれば、最新の高層マンションのほうが優れている。
自宅である最上階でエレベーターは行き止まり、警護の脇を通って玄関を潜れば、自分たち以外の誰もいなくなる。
「疲れたでしょう」
眼下の少年はそれに緩く頭を振るだけで、それ以上は答えない。
「ん」
その、すらりと伸びた足元に屈み込み、片方ずつ慎重に彼のローファーを脱がす。肩に添えられた指先から、わずかな体重が伝わる。ローファーを脱がせ、靴下も脱がせると、ぺたぺたと素足のままリビングへ向かって、彼はソファーへ身を沈めた。
張りつめていた気を、少しずつ抜いているのだろう。背もたれに身体を預け、ゆっくりと目を閉じる。
リビングの照明を暗めに灯し、キッチンの電気ケトルをオンにする。彼のために紅茶を淹れるのは後、それより先に行う日課がある。熱湯に浸したタオルを固く絞り、蒸しタオルを作ると、再び彼の元へ寄る。
跪けば、白いつま先が、つい、と向けられる。
それを押し戴き、滑らかな踵に手を添えて、たっぷりと時間をかけて拭う。
「きもちいい……」
うっとりと言いながら、労うように、血管の透ける甲が頬を撫でる。
「欧彦(おうひこ)」
この声に、この名を呼ばれるためだけに生まれたのだとさえ思う。
鈴の音よりも澄んでいた声も、今は低く静かだ。
少女のような華奢さも次第に薄れ、じきになくなってしまうだろう。
凛々しい眉、切れ長の目、厳しい口元、そのどれもが、見る者に彼の血筋を思い出させる。
無個性な制服に身を包むのもあと一ヶ月。いまだ白紙の襲名も、疑念に眩んだ者には黒く映る。身を狙われる場面は今の比ではなくなるだろう。
「眞弓さん」
その名を呼ぶためだけに、この声はあるのだろうと思う。
最高級のガラス細工より麗しい足に頬ずりをし、薄い皮膚に唇を寄せる。
「今日は特別な日です。あなたのお父上があなたを私に託した日が、今日なんですよ」
眞弓は先代の落とし胤だった。
腹心であった自分は、あの日、忠誠を誓った男をひとり失い、代わりに仁愛を知った。
「知ってるよ。ねえ、欧彦」
かすかに開いた唇の間から、また、自分を呼ぶ声。
そして、ひたと自分を睥睨するのは、芒洋とした黒い瞳の奥の、鮮烈な光だ。
「お前は俺の、父であり母でもあり、兄でもあるのに……俺をそんな目で見るんだね」
子でもあり弟でもある彼に向けた劣情をも、彼を怯ませることはなかった。
欧彦にはそれがたまらなく嬉しく、嗜虐的な悦びが背筋を走る。
「眞弓さん。俺はあなたのために死にます」
ふふ、と、頭上で失笑の息が弾ける。
「知ってるよ」
欧彦の唇を割るように、右足の親指がゆっくりと這う。
「それが、俺の生きる理由だもの」
だから――彼に、彼らに流れる、この血を愛さずにはいられないのだ。
ともだちにシェアしよう!