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特別な日

 バックミラー越しに見た顔が、少し疲れているようだった。  伏せた睫毛を時折億劫そうに震わせ、しかしすぐに気丈に前を向く。背中に定規でも差しているような隙のない背筋に、遠い記憶が重なって、消える。 「眠ってもいいんですよ」  声をかけると、ちらりと笑ったかもしれない。眉間をほんの少し寛がせるだけの、不機嫌そうにも見える微笑。年々、小さな所作やわずかな表情まであの人そっくりになっていく。  念のため市内を大きく一周して、自宅に戻る。  高い塀に囲まれた、錦鯉の泳ぐ池のある大邸宅だと思われていると、いつだか彼は笑っていた。事実、かつてはそんな家に住んでいたが、あまりに幼かった彼の記憶にはないだろう。セキュリティー面だけを考えれば、最新の高層マンションのほうが優れている。  自宅である最上階でエレベーターは行き止まり、警護の脇を通って玄関を潜れば、自分たち以外の誰もいなくなる。 「疲れたでしょう」  眼下の少年はそれに緩く頭を振るだけで、それ以上は答えない。 「ん」  その、すらりと伸びた足元に屈み込み、片方ずつ慎重に彼のローファーを脱がす。肩に添えられた指先から、わずかな体重が伝わる。ローファーを脱がせ、靴下も脱がせると、ぺたぺたと素足のままリビングへ向かって、彼はソファーへ身を沈めた。  張りつめていた気を、少しずつ抜いているのだろう。背もたれに身体を預け、ゆっくりと目を閉じる。  リビングの照明を暗めに灯し、キッチンの電気ケトルをオンにする。彼のために紅茶を淹れるのは後、それより先に行う日課がある。熱湯に浸したタオルを固く絞り、蒸しタオルを作ると、再び彼の元へ寄る。  跪けば、白いつま先が、つい、と向けられる。  それを押し戴き、滑らかな踵に手を添えて、たっぷりと時間をかけて拭う。 「きもちいい……」  うっとりと言いながら、労うように、血管の透ける甲が頬を撫でる。 「欧彦(おうひこ)」  この声に、この名を呼ばれるためだけに生まれたのだとさえ思う。  鈴の音よりも澄んでいた声も、今は低く静かだ。  少女のような華奢さも次第に薄れ、じきになくなってしまうだろう。  凛々しい眉、切れ長の目、厳しい口元、そのどれもが、見る者に彼の血筋を思い出させる。  無個性な制服に身を包むのもあと一ヶ月。いまだ白紙の襲名も、疑念に眩んだ者には黒く映る。身を狙われる場面は今の比ではなくなるだろう。 「眞弓さん」  その名を呼ぶためだけに、この声はあるのだろうと思う。  最高級のガラス細工より麗しい足に頬ずりをし、薄い皮膚に唇を寄せる。 「今日は特別な日です。あなたのお父上があなたを私に託した日が、今日なんですよ」  眞弓は先代の落とし胤だった。  腹心であった自分は、あの日、忠誠を誓った男をひとり失い、代わりに仁愛を知った。 「知ってるよ。ねえ、欧彦」  かすかに開いた唇の間から、また、自分を呼ぶ声。  そして、ひたと自分を睥睨するのは、芒洋とした黒い瞳の奥の、鮮烈な光だ。 「お前は俺の、父であり母でもあり、兄でもあるのに……俺をそんな目で見るんだね」  子でもあり弟でもある彼に向けた劣情をも、彼を怯ませることはなかった。  欧彦にはそれがたまらなく嬉しく、嗜虐的な悦びが背筋を走る。 「眞弓さん。俺はあなたのために死にます」  ふふ、と、頭上で失笑の息が弾ける。 「知ってるよ」  欧彦の唇を割るように、右足の親指がゆっくりと這う。 「それが、俺の生きる理由だもの」  だから――彼に、彼らに流れる、この血を愛さずにはいられないのだ。

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