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雲雀と燕
「あー、でも、ゲイとかはちょっとないわ」
何気なく、他愛のない、明日の今頃には忘れているようなつまらない世間話だった。
どう思う?と訊かれたので、口からただ音を出しただけのことだった。
Jクラスの雲雀(ひばり)はその名前から、この大学のちょっとした有名人だった。別クラスのメンバーが、こうやって噂するくらいだ。変わった苗字なら俺も人のことは言えないが、彼が好奇の対象になる理由はそれだけではない。ほっそりと手脚の長い体格や、センスの良いファッション、悪意を込めても十人並み以上と表現せざるを得ない顔立ちなど、関心を惹く容姿をしている上に、噂だが、ゲイらしい、と。
我ながら気のない相槌だったと思う。
正面の友人が気まずそうな顔をしたことに、あと五秒、いや三秒早く気付いていたら、と思う。
振り返った先に、グレーのゆるいニットがあった。それを見上げていくと、骨格の美しい首や顎、そして、銀縁眼鏡の奥から俺を見下ろす冷めた色の目がある。
ふい、とその目が逸れ、雲雀が踵を返す。あとには、ムスク系の少し重い香水の香りだけがかすかに残った。
「燕(つばめ)、ちょっと、なかったわ」
慰めたいのか責めたいのか、友人らが苦笑する。
「……だな」
倣うように苦笑できているだろうか。胸にえぐみのある感覚がじっとりとせり上がり、俺は細くため息をついた。
人気のない喫煙所で、彼は煙草を吸うでもなく、彫像のようにベンチに腰かけていた。
「雲雀」
青みがかった黒髪の、小さな頭に呼びかける。返事はない。
おずおずと隣りへ座っても拒絶の動作はなく、少しだけ安堵して背もたれに身体を預ける。リュックの中から吸いたくもない煙草を取り出したが、やはり咥える気にならず、彼と同じようにただ俯くことになった。シューズのつま先を、意味もなく浮かせて、着ける。
「さっき、ごめん」
「いいよ、べつに」
静かな声だった。
「ほんとのことだし」
「……それは、だって、知ってるけど」
雲雀がゲイなのは、噂ではなく事実だ。俺はそれを知っている。
「けど、あんな言い方はなかった」
多様性なんて陳腐なことを言わなくても、クラスに一人くらいはいるし、実際彼だってそうだし、大したことではないと自分でも思う。
「優しいね、燕。俺なんかと話すのも、嫌でしょ」
「……俺、さ。中学からずっと電車通学で。さんざん痴漢に遭ってきてさ。中には女もいたけど、大抵、そういうの男で。そっからなんか、そういうの、ダメで」
ニットの中の細い身体が動いたのがわかった。銀縁眼鏡の奥の目が、見開かれている。
「はじめて聞いたよ」
「はじめて言ったし」
嫌悪感の正体を口にするだけで、笑えるくらいフラッシュバックする。震えはじめた手を左右でぎゅと縋るように握り、堪える。
右耳を、涼やかで、皮肉っぽい失笑がかすめる。
「燕にしてみれば、俺だって同じだよな」
「そんなこと、ないけど」
「あるよ」
雲雀の語気が強まる。
「俺だって。お前に触りたい、キスしたい、セックスしたい、汚したい」
直接的な言葉に驚き、焦って、彼を見る。真剣な顔だった。
彼から告白されたのは、秋の終わりだった。
あの時もやはり驚いたし、焦ったし、反射で首を振った。彼はあらかじめ答えを知っていたような顔で頷き、あの一瞬だけが間違いだったというように、クラス共通の授業と喫煙所で顔を合わせるだけの関係に戻った。時々交わす他愛なくも心地よい会話は、以来、なくなってしまった。
「……ごめん」
興奮気味に言い募った雲雀が、しゅんと項垂れる。カーテンのように落ちた青い黒髪が、きれいだ。
「雲雀」
「なに」
「俺、夢見るんだ」
「なんの」
「お前と前みたいに話したり、笑ったりする夢。一回じゃない。何回も」
雲雀は美しい男だ。姿も、顔も、声も、眼差しも、吐き出す二酸化炭素さえも。
「燕」
「ねえ、手、触ってみてよ」
雲雀の腿の上に、手のひらを置く。
「……いいの」
「うん」
こくり、と唾を飲み込んだのだと思う。
震える手が甲に触れ、重ねるばかりで少しも動かないから。彼の手を強く握り返す。
「つ、ばめ」
「やっぱ、へいきだ」
火傷しそうに熱いのは、どちらの手なのだろう。
「ねえ」
「……なに」
「まだ間に合うなら、もう一回言ってくれない?」
何を、とは訊かれたなかった。雲雀の黒い瞳に、星屑のような光がきらめく。
「ちゃんと、答えるから」
雲雀は、すうっと息を吸い込んだ。
「燕、おれ――」
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