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理想の恋人

「ふみ……どうしたの……?」  不安そうで、心配そうな声。 「泣いてるの……?」  掻き寄せて、顔を埋めた枕にどんどん涙が染み込んで、冷たく濡れていく。 「なあ、どうした?」  少しくらい怒ってくれてもいいのに。  ひっく、と嗚咽を漏らす僕にしかし、今の彼は触れられない。  突然彼を突き飛ばして、触らないで、と、僕が叫んだから。  優しい恋人は、それを破ることができないでいる。 「お願い、ふみ、言ってよ……」  何度目かに優しく、真摯に、懇願されて。僕は枕の中でくぐもった声を上げた。 「よっちゃん、俺、よっちゃんとセックスするの、いや、かも……」  ずっと、喉の奥でじりじりと苦味を湛えていた思いを口にすると、その残酷さが身体じゅうを駆け廻って、また涙になって溢れ出す。 「ごめん、ね、よっちゃん……」  やっとのことでそれだけ言って、わっと泣き出してしまった僕の肩に、さっき僕から脱がせたワイシャツをふわりと掛けて、彼は静かに頷いた。 「言ってくれて、ありがと」 「ごめん、ごめんね……」 「ずっと、我慢してくれてたんだな」 「うん、だって俺、よっちゃんのこと好きだから……」  瞬間最大風速の激情が去って、顔を上げる。彼を嫌いになったわけではないことだけは、伝えたかった。たとえ、今夜で失恋することになるとしても。  大好きな、眉毛の濃い、男っぽい顔。  今は少し、そりゃあ、ショックだと思う。  言いつけを守って僕に触れない彼の不器用な指が、ボタンを一つ、留めてくれる。愛おしいその手つきを眺めながら瞬きをすると、ぽたり、と彼の甲に涙が落ちる。 「よっちゃん、俺ね」 「うん」 「お尻叩かれるの、嫌だ」 「……うん、ごめん」  恋愛に縁のない人生だった。初めて出来た恋人は、とんでもなく僕のタイプで、僕に優しくて、僕に首ったけで――夢のようだった。けど。  初めてのセックスで、強かに、何度も、尻を叩かれた。  内心パニックになったけど、それどころじゃなくどこもかしかも痛かったし、人間の言葉を喋る余裕なんてなかった。言えないままに、僕は彼とのセックスで尻を叩かれるのを受け入れなくてはならなくなった。  僕みたいなやつはきっと、現実の恋愛に少しくらいアレルギーが出るのだろうと思っていた。現実の男には、味もあるし、臭いもあるし、癖もあるのだから、って。 「いっぱい、嫌なことしちゃったな」  僕の涙が感染したように、彼もしおしおと項垂れている。 「それとね……」 「うん」 「あの、ね……」 「全部言って、ふみ」 「うん……あの……ね……」  あの時の言葉を思い出して、あの時されたことを思い出すと、下腹にぎゅっと力が入る。僕はお腹をさすりながら、必死に声を振り絞った。 「おしっこするとこ見せてとか、もう言わないで」  目の裏まで真っ赤になる。  恥ずかしい。恥ずかしいし、恥ずかしいだけじゃない。僕はたぶん、こういうことで興奮できない。  そろそろと目を開くと、目の前の恋人の顔も真っ赤になっていた。 「――ごめん」  優しくて真摯で、少し低くてすごく心地よい彼の声が、震えている。睫毛についた滴は、涙だと思う。  僕はたまらずに、彼のがっしりとした身体に抱きついた。 「ごめんね」 「ごめん」  僕らは二人して、しばらくの間、しくしくと泣いた。  その夜、僕らは手を繋いで過ごした。  濃いめに溶かしたココアを飲んで、部屋の明かりをグローランプだけにして。とっぷり暗いオレンジ色の中で、眠くなるまで好きだよと囁き合った。 終わり

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