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窓の向こう

 指定されたのは、駅裏のラブホテルだった。  カフェやセレクトショップの並ぶ通りを一本奥へ入り、左右に優良の看板を掲げた風俗店がひしめく裏通りをさらに一本奥へ入ると、白いタイルの小奇麗なビルが見える。時々利用することのある、慣れたホテルだ。初めて一人で入る時は少し勇気が要ったなと、いまだにふと思い出す。何食わぬ顔でフロントを素通りし、教えられた番号の前でノックをすると、少しして内側からドアが開いた。  隙間に身体を滑り込ませて、パタン、背後でオートロックのドアが閉まる音を聞く。 「はじめまして、ご指名ありがとうございます」  ハルトが常套の挨拶とともに作り笑顔を浮かべると、正面の人物は、俯いていた顔を上げた。 「はじめまして……」  か細く擦れた声。わずかに目を泳がせてから、まっすぐに、こちらを見る。  細身の、濡れるように黒い髪と瞳の男。緊張しているのだろう、顔色は蒼白だった。  その、黒目がちなアーモンド形の瞳、つんと通った小さな鼻、淡いピンク色の唇。  一瞬の混乱の後、慌てて口を開く。 「――あ、ハルトです。よろしくお願いします」 「はい」  待ってくれ。 「お客様、なんてお呼びすれば?」 「ハルカ、です。ちょっと似てるかも」 「はは、そうかも。可愛い名前ですね」  待ってくれ、なぜ、彼が。 「そう……かな、えと、ハルトくんって、呼んでもいい?」 「もちろん」 「たぶん、俺のほうが年上だから」 「嘘でしょ、見えないですよ。あ、俺、プロフィールだとハタチですもんね」  使い古した冗談に、ふふっ、口元に手を当てて、ハルカが愉快そうに笑う。 「今日はお仕事、お休みですか?」 「あ、うん」  知っている。今日は彼の姿を見なかった。 「あの、ハルトくん」 「はい?」 「よかったら……だけど。敬語はやめてくれない?」  そう言って、もじもじと肩を揺らして、また見上げてくる。その程度の要求、拒否する理由がない。 「わかった。ハルカさん」 「ありがとう」  華奢な両肩に手を置くと、目蓋を震わせながらハルカが目を閉じる。淡いピンク色の唇に唇を重ねるとひんやりと冷たく、 「ん」  かすかな鼻息は温かかった。  きっかけは、学生時代に背負った些細な借金だった。ろくでもない先輩に唆されて、競馬でしこたま負けた。悲嘆に暮れながら歩いていた夜の街で、「スタッフ募集」の求人広告を見かけた。翌日には、売り専のバイトを始めていた。ただ、それだけのことだ。ギャンブルには向かないとわかっただけでもよかったと、今では思う。ただ、それだけのこと。  今日のお客はご新規。二十代、ネコ希望。  前もってハルトに与えられていた情報はそれが全部で、いつものようにそれなりに髪型や服装に気を遣い、いつものように時刻ぴったりに指定の場所へ赴いた。  ごくマニュアル通りに会話をして、緊張がほぐれたところで風呂へ誘い、彼の裸を丹念に洗う。ボディソープを泡立てた手で彼の素肌に触れ、彼の手を取って自分の身体に触れさせ、茂みを泡立て、尻の割れ目に指を這わせる。 「あ、あの……」 「ごめんね、これから使うから、きれいにしよう?」  言いながら人差し指を挿し込んでみると、しかし、硬い表情と裏腹の感触に迎えられる。 「ハルカさん、今、彼氏は?」 「い、いないよ。いたことない」 「ふうん、じゃあ、これは?」  程よい弾力と、柔らかさ。 「誰かとするの、ほんとに、はじめてで……」 「じゃあ、今までは、ひとりで?」 「……ん」  羞恥からか、きゅっと寄った眉根と、目尻に浮かぶ涙。  出会いがなければ、案外そういうものだ。五年も売り專をやっていると、初めての男になることも、初めての女になることもある。そして、たとえ金銭で成立した契約上の関係でも、誰かの初めてを味わうのはたまらない気持ちになるものだった。 「そっか、はじめてなんだ」  抑えきれない喜びと、それと同等かそれ以上の安堵が、声に滲んでしまったかもしれない。本番を思って、身体の芯がじりりと熱くなる。甘く後ろを掻き回されたハルカが、口をぱくぱくと開閉しながらハルトに縋りついた。  清潔なシーツの上でキスを交わし、それから、身体つきと同様に華奢なハルカのペニスを舐める。音を立てて啜るハルトの頭を優しく撫でながら、ハルカは少しずつ声を上げた。初めは遠慮がちに、徐々に、妖しく。 「ハルカさん、そっち向いて」 「うん……」 「胸、つけて」 「うん……」 「お尻、上げてね」 「うん……」  ぺたりとベッドに胸をつけて、恥ずかしがって内股に腰を揺らす。たまらず手を添えて、 「ほら、猫のポーズ」  促すと、大きくこちらに尻を突き出した。 「いい?」 「……うん」  すっかり火の灯った身体、うわ言のように繰り返す従順な返事。 「ちょと冷たいよ」 「……んっ」  小分けのジェルをそこへ垂らすと、背筋を痙攣させて喘ぐ。ゴムを着けてゆっくりと入ると、ジェルの泡立つ音を漏らしながら、ハルカはか細い泣き声を上げた。 「ああっ……」  一度目は後ろから、二度目は腿に乗せてハルカを責めながら、果てる。  絶頂感に半狂乱になりながらも一度も放つことができなかったハルカは、最後、ハルトの口の中で果てた。  薄い膜の中で弾けたハルカの精液を、妄想の中でごくりと飲み干す。  はあ、はあ、はあ。  ぐったりと横たわった彼の、シーツに広がった美しい黒髪をじっと見つめる。  ハルトには気に入りのカフェがある。  地下道から上がって横断歩道を渡った先の、アンティークな趣の小さなカフェだ。  入口の横に、テイクアウト用の小さな窓があり、そこで砂糖なしのカフェラテを買ってから事務所に向かうのが密かな楽しみだった。 「ハルトくん、あのね」  いや。確かにカフェラテはうまい。ただ、元々大して拘りのあるわけでもない自分が、一杯で缶コーヒーなら三~四本買えてしまうカフェのコーヒーを毎日のように買うのは、味が理由ではない。 「あのね、ずっと、好きでした」  小さな窓の向こうで、そう、こんなふうにふわりと微笑む彼に、密かな想いを寄せていた。抱きたいとか抱かれたいとかいうより、窓の向こうの彼をずっと見ていたかった。時々、一言二言、他愛ない言葉を交わせるだけでよかった。 「ハルカさん、あの、俺」 「今日はありがとう。一生の思い出になりました」  ハルカの手のひらが、近づこうとしたハルトの胸を押し返す。  熱っぽさの冷めない赤い頬を両手で覆って、下手な演技なんて続くわけもなく、ぽろりと片目から涙をこぼすから。  思わず抱き寄せて、抱きしめる。  ハルカは肩を震わせて、ほんの数秒むせび泣き、顔を上げた。  おずおずと唇を近づけると、嫌がることなく応えてくれる。  長い口付けを終えると、ハルカは恥ずかしそうに、唾液に濡れて光る唇を手の甲で擦った。 「ハルカさん、あの――また指名してください」  上目遣いにハルトを見て、ふふっと笑って。彼は頷かなかった。  ハルトには気に入りのカフェがあった。  テイクアウト用の小さな窓の向こうには、翌日から、見知らぬ女性が立っていた。  砂糖なしのカフェラテは、こんなにも苦くて不味かったろうか。  黒目がちなアーモンド形の瞳、つんと通った小さな鼻、淡いピンク色の唇、柔らかい髪、しなやかな身体、恥らう声――両腕に残った彼の爪痕が、じんじんと疼いた。 終わり

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