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真夏の逃避行

 ある熱帯夜のことだった。いつものように訪ねてきた恋人は、いつもとは少し違って小さな旅行鞄を携えていた。訝しむ昌幸に二人分のチケットをちらつかせ、急き立てるように荷造りを要求し、昌幸はそれに多少は反発したり呆気に取られたりしたものの、最後には夜行バスのシートに彼と並んで座っていた。  控えめな恋人が好きだったが。どうやら考えを改めなくてはいけないかもしれないなどと思いながらも、すうすうと寝息を立てる彼の横顔と、その向こうのカーテンの隙間からちらちら映るトンネルの照明を眺めながら、まるで逃避行のような情景はそう悪くないとも思った。  早朝に到着した空港で国内線に乗り、空へ。二時間ほどで再び地上へ降り、単線の電車に乗せられて山あいを奥へ奥へ走った。とどめにバスに揺られて数十分、とんでもなくのどかな景色の中に建つ木造の平屋を指さして、彼はよくそうするように小首を傾げて微笑んだ。 「ここです」  彼の言うところの「おばさん」が、前もって家を掃除してくれていたのだそう。庭の水道では小玉スイカが冷やされていて、荷解きを終えた二人はその誘惑から逃れることができなかった。  梅雨もとうに明け、今は夏の盛りなのだ。 「下手くそ」 「じゃあ、いらないんですか?」 「いるよ」  自分よりはいくぶん器用な彼が切った不格好なスイカを、縁側に並んで味わう。  じりじりと焼けつくような暑さ、空から降ってくるようなひどく煩わしい蝉の声、そして、冷たく甘いスイカ。長らく無縁だった夏の風物詩というやつが一挙に押し寄せてきたようでもある。 「何年振り……いや、十年は食べてなかったな。感動的だ」 「大げさですね」 「事実だよ。自分で買ってまで食べようとは思わないが……スイカはけっこう好きでね」  きょとん、と目を瞬いた彼が、小首を傾げて考え込むような顔をする。 「本当に?」 「なにが」 「スイカ、好物だったんですか?」 「ああ」  もう一度大きく目を瞬いて、それから急に破顔すると、 「なんだ」 「いえ、なんでも」  しゃく、と、スイカを齧る。白い手に果汁がしたたり、ぽたりと地面に垂れた。 「匠海、訊いてもいいか」 「なんですか?」 「なんだって、俺をこんなところに?」 「……やっぱり、迷惑でしたか?」 「おかげで仕事が滞ってるよ」  自営の翻訳家などという商売に、休暇は存在しない。それを知らない恋人ではないだろう。冗談半分の当てこすりに、しかし匠海は少し傷ついたような顔をして、昌幸を内心焦らせる。 「こんなところですけど。僕の生まれ育った家なんですよ。小学生まではここに住んでたんです」 「そうだったのか」  得心するとともに、わずかな後悔がせり上がる。謝罪を口にするより先に、匠海が早口に呟いた。 「昌幸さん、僕のこと、あんまり興味ないですよね」 「そんなわけあるか」  自分には確かに、彼も認めるように偏屈なところが多分にある。しかし。 「興味もない相手と一緒にいるのか、きみは」  彼が自分の生徒だった頃から数えれば、ゆうに十年を超えるというのに。いまだに彼への気持ちが薄れることはない。四十路の男が年若い恋人に骨抜きにされているのだと笑われても、一切の反論ができない程度の重症だった。だから、強引な誘いに文句を言いつつも、こんなところへ――彼の生まれ故郷なんていうところまで来てしまったのだろう。 「きみだって、俺がスイカを好きだってことを今日まで知らなかったんだ。おあいこさ」  そう言って、もう一切れスイカを取って齧りつく。  ざらついた舌触と少し青臭い甘さを味わい、不愉快な種を地面に吹き出すと、隣で同じように匠海が種を吹き出した。 「手、べたべたですね」  不意に立ち上がった匠海が日蔭を出て、水道に繋がったホースをたくし上げる。蛇口を捻ると先からちょろちょろと、すぐに勢いよく水が出て、少し苦心して調整していたようだった彼がホースをこちらに向けた。いつものように柔らかく、この強烈な日差しの下では掻き消えてしまいそうな微笑だ。 「はい、昌幸さん」 「……ああ、ありがとう」  冷たい流水で洗い、今度は彼のためにホースを持とうと差し出した手はしかし無視されて終わる。怪訝に顔を上げた瞬間、水しぶきが昌幸を襲った。 「おい、匠海」 「気持ちいいでしょ?」 「こら、やめろ」  制止しつつ昌幸も立ち上がり、腕を伸ばす。それをすり抜けた匠海がさらに水をかけてきて、揉み合ううちにどちらともなく笑い出してしまう。しばらくして昌幸はようやく奪ったホースを、 「匠海」 「あ、わ、待って」  彼の襟首の中に突っ込んだ。  甲高い悲鳴を上げて身体を震わせた匠海は、次に、きゃらきゃらと笑い出す。それにつられてやはり自分も声を上げて笑い、さてそうやってどれほど戯れていたのだろう、やがてはヒステリーじみた興奮も醒める。地面に放り投げられたホースが、生き物のように波打って、明後日のほうへ水を撒いた。  お互いに、全身ずぶ濡れになっている。  張り付いたシャツの下、匠海の肌が淡く透けている。髪の先、睫毛の先から滴をこぼしながら、彼はこちらをじっと見つめて言った。 「終わりにしようと思って」 「何を?」 「僕たち……僕の、気持ちを。いつも空回ってる気がして、いつも、僕ばっかり好きで、苦しくて」 「匠海」  力なく垂れた腕を掴む。硝子細工のようにひんやりと冷たく、しかし、どくりと脈打っている。 「俺は、好きでもない人間とは一緒にいない。俺はきみと、ずっと、もちろん今もだが、恋愛をしているつもりでいたよ」  もう一度、どくり。もしかしたら、彼でなく自分の脈だったかもしれない。 「言い方が悪いな。簡単に言えば、きみが好きだ」 「先生……」 「もうずっと、俺はきみの先生じゃない」  喘ぐように開いた匠海の口からは、言葉ではなく、か細い嗚咽が漏れた。  びしょ濡れの服を脱ぎ捨てて、畳の上で抱き合った。  冷たい身体は次第に熱の塊へ代わり、身体じゅうから汗が噴き出し、流れ、開けっ放しの家じゅうに匠海の甘い声が響き渡った。薄暗い居間の中で白く浮き上がる肢体をくまなく愛撫し、口付け、その度に恋人はすすり泣くように、笑うように、嬌声を上げた。  ぬるい風が居間を抜ける。  うちわを仰ぐ手を止めて、夕暮れの庭を眺めるともなく眺める。  台所では匠海が、そうめんなど茹でようとしている。  帰りのチケットはまだ取っていないのだそう。  思えば彼とここまで遠出をしたことはなく、古めかしい平屋に泊まるのも初めてだ。向こうでは滅多に料理などしない恋人が張り切る姿は胸に来るものがあるし、昼間のあられもない姿を今一度拝みたいとも思う。ノートパソコンを持ち込んだおかげで、多少は仕事も進むだろう。  滅多にない休暇をこんなふうに過ごすのも悪くないかもしれないと思い始めていることを彼に告げれば、おそらくは嬉しそうに、頷いてくれるのではないだろうか。

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