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七月のティーソーダ

 寮に三日間戻らないのだと、寮母と彼の母親から同時に連絡があった。  電話は何度かけても人為的に切られ、仕方なくメッセージを送るとしかし、こちらがスマホを手放すより早く返事があるのだから、さて声を聞かれてまずいようなことでもしているのだろうかと邪推の一つもしたくなるというもの。もう夜は遅く、朝に近い時刻だった。翌日の待ち合わせの約束だけ取り付け、地図を送り、俺は二日酔いを訴える波形の頭痛を堪えながら、憂鬱な気持ちで布団を被ったのだった。  駅から少し歩いたところにある、穴場の喫茶店。  通勤の途中で見かけたこの店にとって、俺はまだまだ新参の客だ。つい先日外壁とドア、それに窓枠を塗り直したばかりで、クリーム色と淡いミントグリーンが少し少女趣味ではあるが、それを理由に避けたりなどできるわけがないほど居心地の良い店だった。十一時の約束を五分ほどオーバーしたが、まだ彼の姿はない。そのことに別段驚きや不満はなく、俺はいつもの、アメリカンコーヒーをホットで注文し、少し悩んで追加でピザトーストを頼んだ。結局明け方に盛大にトイレへリリースし、胃の中が空っぽなのだ。社会人一年目、俺は盛大に空回っている。  カップも皿もすっかりきれいになって、SNSで友人たちのセルフィーなど眺めながら時間を潰す。  結局、十二時近くになって、彼は現れた。 「りっちゃん、ごめんね」  両手を合わせ、小首を傾げ、ああ、今日も最大限自分の魅力を振りまく姿勢だ。そのずいぶん大きなTシャツは、どこの誰のものやら。 「夏樹、言うことは?」 「だから、おくれて、ごめんなさい?」  きゅきゅっとビニールを鳴らしながら向かいのソファーに腰掛け、薄茶色の瞳の中に湛えた星々をきらきらさせながら、こちらを見る。俺は今日何度目かのため息を吐いて、メニューを夏樹へ差し出した。  保護者と言っても、たった三つ違い。俺は社会人一年目、夏樹は大学二年生。海外で暮らす彼の両親からの信頼が厚いばかりに、俺はこのお転婆のお守りを任されている――正直、荷が重かった。 「ねえ、ティーソーダってなに?」 「どれ?」 「これ」  細い指先の差す欄を見ると、確かにそこにはティーソーダと書いてある。 「炭酸の紅茶じゃねーの?」  字面をなぞって言うだけの俺に夏樹は少しむくれて、マスターに向かって大きく手を挙げた。 「すみません、ティーソーダひとつ」  氷を敷き詰めたグラスの中の液体は、底のほうは濃く透き通った琥珀色、上へいくにつれて無色透明のきれいなグラデーションになっていた。飾りのミントを摘まみ、それを俺の空のカップへ寄越すと、夏樹はガムシロップを一つ、二つ、三つも入れて、ストローでかき混ぜる。きめ細かく立ったソーダの泡が、縁でパチパチと音を立てて弾けた。それから、恐る恐る啜って、ドングリ形の目を瞬かせる。 「おいしい」 「ふうん。紅茶?」 「うん、紅茶。あとソーダ」 「俺の言ったとおり」 「違うもん。りっちゃんも飲む?」 「いいよ、甘そう」  そうやってすぐむくれるが、少しは俺のことも思いやってほしいものだ。そんな芸当できる子じゃないことは、重々わかっているけれど。なんたって、甘え上手の甘やかされ上手。 「無断外泊してるんだって?三日間も」  ようやく本題を切り出すと、 「だって」  ほら早速、頬を膨らませてふて腐れる。 「だってじゃない」 「だって。三日前から幽霊が出るの」  十九年間聞き続けた中でも屈指の出来栄えの口答えに、一瞬思考が止まる。 「怖くって帰れない」  言い訳をする気もないということだろう。俺はできるだけあてつけがましく聞こえるように、大きくため息を吐いた。 「なーあ、どうすればその幽霊はいなくなるんだ?」 「……りっちゃんのとこに住みたい。そうすれば、いなくなる」 「わかった。ただし、ちゃんと外泊届出しな」 「外泊じゃだめ、いなくならない」  夏樹の無断外泊は、今に始まったことではない。特に、俺が寮を出たこの春からはずいぶん頻繁になった。むべなるかな。お目付け役が離れてさぞ解放感に満ちた毎日を送っているのだろうと、ずっと思っていたのだが。  絶句した俺の脛を、夏樹のスニーカーのつま先がつつく。  俺がサンダルのつま先でつつき返すと、なんとなく、足首どうしが絡む。  一度ちらりと伏せて、それからこちらをじっと見てくる薄茶色の瞳の中には、やはり、いくつのも星々が、今はソーダの泡のように次々と弾けては消えている。 「夏樹って、コンタクトしてたっけ?」 「……してない。知ってるくせに」 「だよな」  だとしたら。これはいったい、どういう仕掛けなのだろう。  無言の夏樹は、拗ねた唇でティーソーダを啜る。ずず、と、わざと行儀悪く音を立てたりして。  ストローを離した拍子に、小さな飛沫が上がる。その飛沫が跳ねた唇に、俺は思わず手を伸ばした。柔らかく、ひんやり冷たい唇を、なぞる。それから、少し湿った自分の親指をぺろりと舐めた。  こうでもしないと、今すぐ彼にキスをしてしまうと思った。  なんたって、俺の片想いは長い。 「甘いな」 「……本物は、もっと甘いよ」  気障なせりふにふっと笑って幼馴染を見ると、彼は耳まで真っ赤になって、俯いていた。 終わり

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