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ラクリメ
「本当に俺でいいんですか」
落ち着きはらった声、まっすぐに見据える瞳――そして、僕の手を痛いくらい握る力。
「お前こそ。俺でいいの?」
あと数センチで触れる唇が、再び開く。
「俺は、あなたがいい。先輩は本当に、俺で、いいんですか」
「俺も、お前がいいよ」
震える唇に、ついに堪らず口付ける。舌を絡め、音を立てて放すと、温かい息が首筋にかかる。
「好きです」
僕はゆっくりと、彼を抱きしめた。
藤代大稀は、地元では有名な存在だった。ジュニアクラブのエースで、高校時代には全日本ユースの代表候補に選ばれたこともあった。オリンピック選手やJリーガーにはならなかったが、大学でもサッカー部に入り、地元の製薬会社に就職した今も実業団の選手として競技を続けている。
僕はといえば、同じ学校を二年早く卒業した後、県内の音大へ進んだ。中の中、それ以上でも以下でもない大学では教育学部に在籍したものの、卒業後も運良く地元の交響楽団で細々とビオラの演奏を続けている。
僕と彼との接点は、彼の兄だった。藤代兄弟もまた、有名な存在だった。彼らはまるでおとぎ話の登場人物のように典型的な、平凡な兄と非凡な弟だった。彼の兄とは、高校の吹奏楽部で知り合った。当時僕はオーボエもやっていて、我ながらごく平凡な奏者であったが、同じく平凡なフルート奏者であった彼の兄とは気の合う友人だった。いや、友人だったのは最初だけで、僕らはいつか惹かれ合い、その関係は甘酸っぱいまま終わることはなかった。
ある日、制服を脱ぐのもそこそこに抱き合っているところを、彼に見られた。
あの時も、逸らすことなくまっすぐに、僕の目を見ていたと思う。
義理堅い彼は僕らの恋愛を決して口外しないと約束し、僕らはそれに安心して関係を続けた。
いつか、彼の兄の近況は、直接本人に聞くよりも彼から聞くことのほうが多くなった。フェードアウトした恋愛は、振り返ってもいつどこで落としたのかわからない。この街と東京はあまりに離れている。地元に残った者どうし、大稀とは時々会って飲むような間柄になっていた。
「俺……兄貴の、お古ですよ」
「それを言うなら、俺があいつのお古かなあ」
仕事帰りに居酒屋で待ち合わせて、他愛ない話をする。僕らにはよくある夜だった。ひどく控え目ではあったが珍しく彼がマンションへ誘うのを断る理由はなく、缶ビールを空け、今夜こそと決意した瞬間に鋭く先制するように好きだと言われた。知ってるよ、なんて、余裕ぶって答えたが、握ったこぶしの中でじわりと汗が染みた。
企業ロゴの入った練習用ジャージのファスナーを下ろし、Tシャツを脱いだ彼の裸の胸は、逞しくしなやかだった。手で触れると、破れそうなほど心臓が高鳴っているのが伝わって、まったく昔から顔に出ないやつだなと呆れる。
「先輩……指、硬いですね」
「ああ、うん、だろうね。一応これでもビオニストだから……ねえ、大稀」
「はい」
「俺のこと、名前で呼んでよ」
「……先輩がいいなら」
「なんですぐそういう言い方するかな。いいよ、呼んでよ」
「……斗真とうま、さん」
「うん」
それから、もう何度目かわからないキスをする。
僕より小柄な大稀の身体は、しかし息を呑むほど無駄なく鍛え上げられていた。普段ユニフォームから出る部分はきれいに焼けていて、隠れた素肌は抜けるように白く艶めかしい。何十分もピッチを駆け回る脚は鞭のようにしなやかで、弾けそうなほど筋肉が張り出し、極上のフォルムだった。片脚を持ち上げて、頬ずりをしながらゆっくりと膝を曲げると、力強いばねが僕を押し返す。
「せんぱい……斗真、さん」
「ん?」
「……へんなこと、しないで」
「変かな」
「俺の脚なんて」
いやいやというにはあまりにか弱い反抗に、構わずふくらはぎに口付けると、癖の強い茂みの中から大稀が首をもたげる。誘われたように、誘うように、揺れて。濡れそぼるまで擦りあったそこは、お互いにもう限界に近かった。
「いい、かな」
「はい……先輩の女に、してください」
「バカ」
「え?」
「でも、可愛い」
凛々しい眉、切れ上がった目、通った鼻筋……パーツひとつ取っても、可愛いよりは断然、かっこいい男だけど。
「お前、俺のことなんか、簡単にひっくり返せるだろ。なのにさ、こんな――」
ゆっくり腰を沈めると、あ、あ、と小さく悲鳴を上げながら、大稀は僕を呑み込んだ。骨が軋みそうなほど強く僕の手を握って、ぎゅうぎゅうと、中を締め付ける。
「ずっと、好きでした」
「うん」
「優しくて」
「うん」
「きれいで」
「わは、うん」
「俺、ほんとに憧れてて」
「うん」
「なのに、先輩は兄貴を選んで」
「うん」
「悔しくて」
「うん」
「でも好きで」
「うん」
「諦めらんなくて」
「うん」
奥を穿つたび、大稀は一つずつ胸の内を零した。
「ねえ、大稀」
「んっ……」
「知ってる?あいつといた時間より、お前といた時間のほうが、もうずっと長い」
奏でるほど色を変える声。甘く喘ぐ自分に耐えられなくなったのだろう、唇を噛んで、ふー、ふー、唸るように鼻息を上げる。
「待たせてごめん」
痺れる手で、彼の手を握り返す。
大稀は食いしばった歯の隙間から嗚咽を漏らし、まなじりから一筋涙を流した。
失神寸前まで抱き合って、落ちるように眠りについた。ばかみたいに清々しい気持ちで目覚めたのは、早朝五時を少し過ぎた時刻だった。
ベッドは既にもぬけの殻で、彼の姿も、脱がしたジャージもどこにもなかった。
部屋にこもった彼のにおいと飲み残しのビールのにおいを大きく吸い込み、吐く息が欠伸に変わる。カーテンの隙間から射し込む光はうっすら明るく、ああ、こんな朝でもロードワークに出かけたのか、と気付くと急に可笑しくなって、僕は一人くすくすと笑いながら再びベッドに倒れ込んだ。
終わり
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