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シンクロナイズド

 時間ぎりぎりに到着すると、既に中は満員状態だった。  後列の真ん中あたりに空席を見つけ、ぺこぺこと頭を下げながら隙間を縫って歩く。スピーカーからは穏やかなピアノ曲が流れ、着席している者はみな一様に黒い服に身を包んでいる。平日夕方にも関わらず多くの人が駆けつけた、古い友人の通夜。突然の訃報は、悲しみよりも驚きの方が大きい。三十八年の人生は、やはり少しばかり短いだろう。 「すみません」  最後の一人へ頭を下げて、やっと空席に座る。  仕事終わりに慌てて着替えた喪服は、ここへ来るまでに何度も直しているのに、まだしっくりこない。意味もなく襟を引っ張っていると、横合いから低い声がした。 「……榎本?」  ひそめるように、しかし確かに僕を呼ぶ声。  左隣を見た瞬間、目玉から神経を伝った電流が脳を痺れさせる。気難しそうな眉間、強い目線、高い鼻筋、厚い唇―― 「……大澤」 「やっぱり、榎本だ」  男はきつく眉根を寄せた表情をくつろげて、ふっと笑う。不機嫌そうな顔が、その瞬間とんでもなく甘くなった。 「変わらないな」  高校時代の同級生の一人、大澤。同じ同級生の通夜だ、こんな再会もおかしくはない。それでも、一度笑いかけられただけであの教室へ戻るほどの強烈なフラッシュバックに、目が眩んだ。 「ほんとに、急だよな」 「うん……驚いたよ」 「あいつと会ってた?」 「新年のメールくらい」 「俺は、前回の同窓会以来だ。榎本は一度も来たことないんだろ?みんな気にしてた」 「まさか。俺なんか」 「……やっぱり、変わらないな」  喉の奥で笑った大澤が首を伸ばすのにつられて、僕も祭壇を見る。遺影の友人は記憶の中とずいぶん変わっており、それでいて込み上げるようなノスタルジーがあった。 「別れの曲」  大澤が静かに呟く。 「え?」 「ショパンの」 「ああ……これ」 「うん」 「この曲、下校時刻になると流れてたよな」 「ああ、そっか、それで聞きおぼえが……」  噂話に気づいたようにピアノが止み、通夜の開始を告げるアナウンスが流れる。誰かの空咳を残して、静寂が広がった。  読経の間も、焼香の待ち時間も、左隣の長い脚の上で組まれた大澤の手ばかり見ていた。通夜が終わり、会場が再びざわめきを取り戻してもすぐに席を立たなかったのは、列の中ほどで身動きが取れなかったせいで、わざとぐずぐずしていたわけではない。状況は彼も同じというだけのことだろう。 「榎本、今どこに住んでるの?」  時間つぶしの世間話に一駅先の名前を告げると、少し驚いたように、彼は二駅先の名前を口にした。 「ここまでは電車?」 「あ、うん」 「俺、車だから、よかったら送ってくけど」 「悪いよ」 「迷惑だったら」 「いや、そんなこと」 「――じゃあ、行こう」  軽く笑って立ち上がる大澤を追いかけて、慌てて立ち上がる。  ロビーで他の同級生としばらく近況報告などしたあと、駐車場に停まった白のCR-Vに二人で乗り込んだ。他人の車のよそよそしさはほかに例えようがないが、今感じているのはたぶん、もっと度し難いものなのだと思う。 「一度だけ、一緒に帰ったのおぼえてる?」  エンジンをかけながらぽつりと大澤が言うのに、思わず息が止まる。 「……うん」 「ほんとに?おぼえてるの?」 「嘘ついて、どうするの」 「いや……そっか」  口元へ手をやって、くすんと小さく大澤が鼻を鳴らす。助手席から伺う、やや面長の、すっきりとした顔立ち。あどけない頬のラインは今はもう精悍に削がれ、ああ僕らは年を取ったのだなと強く思う。あれから、二十年経とうというのだ。  僕らの関係は、果たして旧友と呼べるほどのものだろうか。高校時代、理系クラスと特進クラスは隣り合ったまま三年間クラス替えがなかった。体育と科学、そして世界史で三年間一緒だった僕らはしかし、まともに話すこともないまま卒業した。その頃の僕は極度のあがり症で、クラスでも目立たない存在だったし、友達も少なかった。 「榎本って、今実家なの?」 「いや、実家は出たよ」 「後、継がなかったんだってな」 「うん……町の歯医者さんって柄じゃないから」 「俺、時々、車で前を通るよ。榎本歯科医院」  僕が歯科医の息子であることなんて、彼に話したことはなかった。そんな当たり前の会話すらできないほど、遠い関係だったのだ。それでも、たとえば僕も、彼がクリスチャンの家に生まれて、海外でも通じやすいようにと真郁という名を付けられたことなんかを知っている。 「大澤は、アメリカで就職したって聞いたけど」 「向こうで働いたのはほんの二、三年だよ」 「……そう」  オーディオから小さく流れる九十年代ポップスと、エアコンの静かな風の音と、それより静かな車の駆動音。前を走る車が何度か軽くブレーキを踏んで、赤いランプが点いては消える。 「榎本、結婚は?」 「俺はひとり。たぶん、ずっとこのままなんだろうなって思う」 「なんで」 「そんな気がするだけ……大澤は?」 「あー、俺はね、バツイチ」 「そうなの」 「奥さん、出てっちゃったんだ」 「……聞いても?」 「いいよ。って言っても、それ以上説明できることもないんだけど。出て行った奥さんを、俺は迎えに行かなかった。で、別れた。子供もいなかったし、うちは俺より奥さんのほうが忙しいくらいだったから、家事もほとんど俺がやってて、奥さんが出てっても特に困らなかったし」 「……そういう問題なの?」 「そういう問題じゃないだろ、ふつうは。だからバツがついたわけ」 「……そっか」  右車線に出た大澤の車が、加速を始める。  胸を焦がすようなこの懐かしさはきっと、僕だけのものだ。  口下手で、照れ屋で、傷つきやすかった僕らは大人になって、オブラートに包むことや水に流すこと、気遣いや社交辞令なんて余計なものをたくさんおぼえたせいで、いったいどれが本当なのかわからなくなってしまった。この短い時間で、呼べなかった彼の名を何度も読んで、聴きたかった僕の名を何度も聞いた。それでも、あの頃交わしたほんのわずかな言葉の貴さを塗り替えることはきっとできないのだと思う。 「榎本、ほんとに変わらないな」 「そうかな」  たとえば。この言葉もどのくらい本当なのだろうかと、少し呆れて運転席を見る。大澤は正面を見たまま、顎を撫でて笑った。 「あの頃のままだ。その、剃刀負けも」  思わぬ揶揄に、かあっと顔が熱くなる。僕は子供の頃アトピー持ちで肌が弱く、大人になってもそれはあまり変わらない。今も彼の言うように、顎に剃刀負けの赤い吹き出物が浮いているのだろう。 「大澤は、変わったよ」 「そう?」  少し長かった前髪を今は上げて、額を出してタイトにまとめている。ぶっきらぼうだった言葉遣いもずいぶん優しくなった。Gショックの腕時計なんてもうしていないし、安っぽい制汗スプレーのにおいは今、鼻の奥を時折撫でるムスクに変わった。 「この先、渋滞ひどいな。ごめん、電車の方がよかったかも」 「電車だって、この時間は混んでるよ」 「そっか」 「うん」  カーナビを閉じた液晶にはまた、素っ気ないアルファベットが流れるだけ。懐かしい。もしかしてJamiroquaiが好きだった? 「榎本……ひとり、なんだな」 「……うん、ひとり」  あの日の放課後、校内放送から別れの曲が流れる中で、僕は――僕らはやはりこんなふうに、言葉を探していた。昇降口は逆光で真っ暗だったけれど、大澤は僕を見ていた。ひとり?と聞かれて、ひとり、と答えた。何を話すでもなく、そのままバス停まで歩いた。じゃあ、と彼の挙げた手に、手を振り返したことが、あとになって猛烈に恥ずかしかった。 「大澤」 「ん?」 「よかったら。うちに寄っていかないか」  暗がりの中から、強い視線がひとつ。 「もう少し、話したい」 「……うん」  こくん、と顎を引いて頷く仕草が奇妙に幼くて、おかしくて。僕はたまらずに、心臓を押さえた。

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