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Vision

 何度目かに壁掛け時計を見て、ふう、小さくため息を吐く。六時には出たいと思っていたのに、もうすぐ三十分オーバーだ。なるべく早く行くよ。その約束に自分でもずいぶん急かされているのだと思う。窓の外は、水槽に少しずつ墨汁を溶くように、だんだんと薄く暗くなっていく。  どうせ終わらない事務仕事に、今日はもう見切りをつけよう。書類をファイルに戻し、白衣を脱いで、ロッカーのハンガーに掛ける。  カーテンを閉める寸前、グラウンドの遠くにナイター照明が灯るのが見えた。  新着のメッセージが数件届いている。スマホをしまってからほんの数分後、つまりもう何時間も前のことで、重要な用件だったらと少し焦る。開いたメッセージ画面は、短い吹き出しが連なっていた。 「胃に入れるものとか・・・」 「スポーツドリンクとかも・・・」 「おねがいします」 「ごめん」  心配していないわけじゃない。でも、思わず笑ってしまったんだ。  ドラッグストアに寄って、早く、会いに行こう。  彼が住んでいるのは、まだ新しい、小ぢんまりした二階建てのアパートだ。集合ポストの前の小さなアーチをくぐり、階段を上る。深い臙脂色のドアをしばらく見つめて、銀色のレバーに力を入れる。玄関の鍵は開けておくと言われていたのに、あっさりとドアが開いてしまったことに少しどきりとする。暗い玄関に向かっておじゃまします、と呟いても、しんとした静寂が返ってくるだけだった。  何度も訪れているけれど、こんなに色の消えた彼の部屋は初めてだ。いつもなら天井の蛍光灯が穏やかな白を放ち、テレビから映画のきらびやかな音が流れていて、キッチンからは手料理の良いにおいがしているのに。  対面キッチンのカウンターに荷物を置いて、その先の、寝室のドアを軽くノックする。 「犬飼?」  呼びかけても返事はなく、 「寝てる?」  そろそろとドアを開けると、黒い人影が動くのが見えた。ベッドに身を起こしたこの家の住人が、自分を呼ぶ。 「せんせい」  ほんの一日聞いていなかっただけなのに、懐かしいとさえ思える、少し低くて擦れた声。 「ごめん、起こしちゃった?」 「ううん、来てくれたんだ」 「もっと早く来るつもりだったんだけど。具合はどう?」  壁際のスイッチを押して電気を点けると、見慣れた人懐こい顔が、今は少し疲労している。昨晩から高熱が続いていると言っていたっけ。自分よりいくつも若いが、大人になってからの風邪が辛いのは彼だって一緒だろう。短い髪をくしゃくしゃっと掻き回して、億劫そうに笑う。 「さっきまでぐっすり寝てたから、ちょっと楽になったかも」 「そう、熱は?」 「まだ計ってない」 「体温計……」 「あ、そこ」  彼が指差した先のパソコンデスクには、山積みの書類、薬局の袋、空のペットボトル、コーヒーを飲み残したままのマグカップ、そして、体温計がある。ケースとはぐれたそれを拾って、スイッチを押してから渡す。 「はい」 「ありがと」  脇に体温計を挿し込みながら、犬飼が言う。 「ナオキは今日、出てきた?」 「午後に少しね」 「そっか」 「こんな時くらいは、自分の心配だけするんだよ」  不登校気味の教え子のことを、真っ先に気に懸けるのだから。 「うん、先生」  今はもう一人の同僚なのに、そう呼ばれると、彼が生徒に戻ったような錯覚に陥ってしまう。たった一年のごく短い日々が、ひどく鮮烈に蘇るよう。今よりずっと華奢で、今より少し髪が長くて、いつもセーターの袖を捲り上げていた。よく日に焼けた肌とまっすぐな笑顔が眩しい少年が、あどけなさの抜けた今の彼に重なって見える。それが記憶なのか幻影なのか、もう、自分でもわからないのだ。 「ねえ犬飼、俺はもうきみの先生じゃないけど?」 「三池さん」 「うん」 「椎野さん」 「はは、うん?なに?」  三池椎野、どちらも苗字みたいな、自分のフルネーム。口馴染みを試すように続けて呼んで、返事をさせておいて、何も答えずにくすくすと笑うから。 「なあに?」 「俺、椎野さんに看病してもらうの、憧れてたんだ」 「そうなの?」 「そうだよ、俺だけじゃなくて、皆憧れてる」 「まあ、保健室なんてそういう場所だからね」  どうしてもなりたかった職業というほどではない。たまたま取った資格の使い道がたまたまあった、くらいの感覚で、母校の養護教諭になって七年経った。新米教諭と生徒の関係だったのは、たった一年間。彼が数学教師としてまた母校に戻ってきてからはもう、二年経った。 「そういう意味じゃないんだけどな」 「じゃあ、どういう意味」  彼が口を開くより早く、ピピピ、体温計が鳴った。 「三十八度二分……」 「まだ高いね。スポーツドリンク飲む?」 「うん」 「取ってくる。ついでに何か食べる?薬、飲まなきゃ」 「椎野さん」 「ん?」  キッチンへ荷物を取りに引き返そうとした椎野の手を、犬飼が掴む。体温計が示した数字より、ずっと熱いような気がする。 「まだ、ここにいてよ」 「すぐ戻ってくるのに?」  ドアの向こうを指さしてみても、ううん、と首を振るだけ。椎野は小さくため息を吐いて、ベッドの端に腰掛けた。 「はい。いるよ?」  すっかり大人になってしまったと思わせたそばから、駄々をこねるらしい。繋がれた手をベッドの上で一回、二回、悪戯に弾ませると、耳元で低い低い唸り声が聞こえた。 「……椎野さん、警戒心なさすぎ」  熱い。  長い腕が巻きつき、自分を抱きしめているのだ。  息を呑んだ椎野を、ぎゅっと力を込めて、胸に引き寄せる。少し痛くて、とても、熱い。 「……犬飼?」 「病人だけどさ、男の一人暮らしだよ?」 「ねえ、犬飼、痛いよ」 「そうだよ。先生よりずっと、力もある」  身じろいでも、びくともしない腕力。触れた頬、かかる息、全部が熱い。 「先生はもう俺の先生じゃないけど……俺だってもう、あなたの生徒じゃない」  椎野はそっと目を瞑った。  ねえ、そんなふうに苦しそうに言わないで。 「言ったよね?」  椎野を抱く腕に、さらに力が入る。骨が軋みそうだ。 「俺、あなたのこと好きだ」 「……うん」 「言ったよね、ずっと好きだったって」 「…………うん」 「ずっとだよ。十八の時から、ずっと。先生は俺のことなんて忘れてただろうけど、俺は忘れなかった。先生にふさわしい男になりたくて、ずっと必死だった」 「忘れてないよ……あの頃から犬飼は頑張り屋だったね」 「なら、ごまかさないで、俺のこと見てよ」  形ばかりの抵抗は、もうしていない。力を抜いて、犬飼の肩に頭を預ける。 「先生?」  瞑っていた目を開ける。  ふと見た窓の外はいつか真っ暗で、ガラスにくっきりと二人が映って見える。痩せっぽちな自分を、まるで縋りつくように抱きしめているんだね。  対照の世界の中で、夜を透かした彼が、のろのろと顔を上げた。 「先生……?」 「しいの、って、呼ばないの?」  赤く潤んだ目は本物。一瞬揺らいで、すぐにまっすぐ見つめ返してくる。 「そうやって、応えてくれないくせに、嫌がらないから――俺、やっぱり、期待するよ」  しなやかな腕を撫でると、また、力がこもる。けれど今度は、ひどく優しい。 「……犬飼は、ほんとに俺でいいの?」 「どういう意味?」 「冴えない保健室の先生だよ?」 「皆が憧れる保健室の先生、だよ。生徒になんて言われてるか知ってる?」 「きみよりずっと年上だし」 「うん。俺が生徒の時からずっと変わらなくて、ずっと、すごく、きれい」 「……へんなこと、言わないで」 「ほんとのこと。あのね、椎野さん」  ゆっくりと抱擁が解ける。 「好きです。俺と、付き合ってくれませんか?」  しっかりした眉、大きくていつもきらきらした瞳、高すぎない鼻筋が優しい印象。大きな口元は明るい笑みの形が一番似合っているけれど、こんなふうに、真剣に引き締まっているのも――とても、いい。 「はい」  それだけのせりふが、笑ってしまうくらい震えていて。  つられたように笑った彼が頬を撫でるから、その手に手を重ねる。 「朋の手、熱いね」 「……椎野さん、俺のこと」 「変、かな」 「ううん、嬉しい。すっごい、嬉しい」  初めて声に出して呼んだ彼の下の名前が、口の中で、頭の中で、甘く響くようだ。  じわじわと込み上げてくるのはたぶん気恥ずかしさで、 「椎野さんも熱い」  赤面するのを揶揄われて、余計に熱くなる。  視線が絡む。  もう、それに気付かないふりをする必要はどこにもない。  彼の指が、落ちた前髪をそっと耳にかけてくれる。そのまま耳たぶを軽くつままれて、薄く目を瞑ると、ひそめるようなため息が睫毛をそよがせた。 「風邪、うつったらごめん……」 「いいよ。看病してね」  二人は笑い合いながら、熱い熱い唇を重ねた。 終わり

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