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トライアングル

 ドアの前にうずくまる影を見て、息が止まる。  驚いたわけではない。恐ろしかったわけでも。強盗にさえ見向きもされないような安アパートの、前時代的なのろいエレベーターを降りて右手側は間違いなく俺の部屋で、そこにうずくまる人影も、間違いなく俺を待つ影だ。まあ正確には、俺でなくともいいのだろうけれど。 「おかえり」  暗がりの中から、ひとしきりぐずった子供が満足げに笑う時のような、神経の快い部分と不快な部分の境目を触る笑顔が向けられる。俺はそれには応えず、ドアノブに鍵を挿し込んだ。分厚いスチールの向こうで、ガチャンと鈍い音がする。 「ただいまあ」  俺の後ろから当然のように部屋へ入り、まるでここが自分の部屋であるようにそう言ったやつを――ああ確かにお前の部屋でもあった頃があったな――と、俺は今度こそはっきりと不愉快な気分で振り返った。 「何しに来たんだよ」 「帰って来たんだけど?」  襟ぐりの開いたニットの奥から、白い胸がちらつく。ゆるい癖のついた蜂蜜色の髪を指でかき上げて、蠱惑的に唇の端を上げる。その指を俺のほうへ伸ばし、やつは俺の頬を撫で、唇を撫でた。 「泊めてよ」 「ほかを当たれよ」 「リックがいい」 「は。そう」 「ねえ、どうしてほしいの?リックの言うことなら、なんでも聞くよ」  もう片方の手は答えを聞くより先に、生地越しに俺の股間をまさぐっている。  何度ループしたかわからないシーンだ。  オリジナルのフィルムを見つけ出すことができるなら、出会った時からこの瞬間までのシーンを全て切り取ってしまいたいと思うのに。  俺は柔らかい唇に噛みつき、歯を立て、皮を割いた。鉄くさいにおいと味が広がる。 「おいしい……?」 「まずい、吐きそうだ」  傷つけられるのが大好きな男だ。感じたようにか細い鼻声を上げたやつは身体を震わせて俺に縋りつき、俺たちは唾液を啜り合いながら、乱暴にスボンを下ろした。  さんざんに俺を弄んで、あっさり捨てた、昔の恋人。  恋人だと思っていたのは俺だけだったのだろうと今はわかる。  やつは蝶だ。花から花へ、気まぐれに一番おいしい蜜だけ吸って飛び立っていく。  ほんの数回の射精と引き換えに、強烈な後悔を得るだけの時間だ。目が覚めると部屋はすっかり明るく、やつの姿はもうない。網膜に、鼓膜に、べっとりとこびりついた淫猥な嬌態は、ポルノビデオで糊口をしのいでいる売れない俳優の十八番だった。  財布から抜かれた札と、冷たく濡れたバスルームの床が現実。  怠いだけの身体を引きずって、俺は冷蔵庫へ顔を突っ込んだ。  いくつもの店を渡り歩いたが、この店に落ち着いてからはずいぶん経った。  歓楽街の小さなバーでピアノを弾くのが、今の俺の仕事だ。  ひどく汚れている気がして何度も石鹸で洗った手を、ピアノの蓋にかける。こんな日に最初に押したくなるのは、B♭のキー。ポーン、と、清らかな音が静かなフロアに響いた。 「少し疲れている?」  B♭の余韻を引き取るように、控え目な声がする。  細長い手足を持て余しながらモップに寄りかかって微笑んでいるのは、俺と同じくこの店に雇われているバーテンダーのニコルだ。 「そう見えるかな」 「勘だけど」  彼の口から音となり意味になれば急にそれに直面した気分になり、知らずため息が出た。 「……ごめん、心配かけて」 「俺の趣味みたいなものだよね、リックの心配するのは」  ドライな柑橘の香りに乗って、涼やかな含み笑いが漂ってくる。  少し左に寄って椅子を半分空けると、ふわりと隣りへ座り、彼は俺の背中をゆっくりと撫でてくれる。三つ年上の彼にとって、俺はきっと、ひどく頼りない存在に違いない。 「気のせいだったらいいんだけど」 「……キールが来た」 「そう」  セックスしたよ、と、言葉にするのをためらい、呑み込む。わざわざ言わなくても、やつが俺の元へ気まぐれに来たということ、それを打ち明けることは、そういうことだと彼も知っている。 「ニコル……ねえ、ニコラシカ」  口の中でいたずらに名前を転がされても、彼は怒らない。 「なに、リック」 「俺は弱い人間だ」 「そうかもね……でも、誰かのためにピアノを弾くことができる」 「そりゃ、仕事だから」 「あの時は、もう閉店後だったよ」  思い出しているのだろう。彼のために最初に弾いたのは、得意のジャズではなく、下手くそな即興のスカボロー・フェアーだった。夜明けの気配に満ち始めたこのホールで、彼は押し黙ったまま泣いていたっけ。 「今ならもっと上手く弾けるよ。練習したんだ」  返事の代わりに、こつん、頭と頭がぶつかる。  ニコルのツンドラの肌と、宇宙の黒髪が好きだ。ニコルは俺の、夕焼けをミルクに溶かしたような肌が好きだと言う。時々、この瞳をブラックオリーブになぞらえたりもする。マティーニと一緒に噛んじゃいたいって言って。  俺たちはゲイで、この店の客の半分はきっとそうだし、そもそもこの街はそういう街だ。  こんなにも隣にいて心地よく、愛情を抱けるニコルと、しかし俺は寝たことがない。実に単純で笑えることに、俺たちはお互いにボトムの経験も願望もなく、たったそれだけの理由で一線を越えられないでいるのだ。強く惹かれ合っていると感じるのがただの錯覚で、本当は大して強く求めているわけではないのかもしれないし、知らないだけでこれが友情というやつなのかもしれない。 「あの時のギムレットも最高だった」  彼に良く似たライムの香りのカクテルを、俺もまた目を瞑って思い出している。触れ合った肌から伝わる、とく、とく、脈打つ振動はまるで子守唄のようで。 「うん、俺も、あの時より上手に作れる」  力を抜いてすっかり寄りかかった俺を、彼はただ甘やかすために抱きしめてくれるのだ。

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