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汝、我を許し給え
いつ眠ったのかわからないままに目が覚めた。
からからに渇いた喉、軋むような骨の痛み、ひりつく肌、消えないにおい。
ああ、夢なわけがない。
夜明けを祈るように耐えたあの感覚が込み上げ、慌てて口元を押さえながら洗面所へ飛び込む。
食道を焼きつかせながらせり上がり、噴き出した胃液には、もしかしたら彼の精液も混じっていたかもしれない。すっかり麻痺したはずの心にまだ愚かしくも自己嫌悪と自己憐憫が押し寄せるのにうんざりしながら、つうんと鼻を突くすえたにおいに、再び嘔吐した。
僕は彼のことが好きなはずだった。
手を繋ぐのは恥ずかしいけれど嫌じゃなかったし、キスをするといつも胸がときめいた。疑似恋愛に興じているのではないはずだった。校風と言い切るべきかはわからなかったが、男しかいない全寮制のこの学園にはたくさんの幸せなカップルがいて、僕らもそのうちのひとつだった。
いつかは彼に求められるとわかっていたし、僕にとってもそれは興味のあることだった。
学園でも一二を争う美男子の彼に、幸運にも見初められた自分。
僕らカップルの「進み具合」は周囲の関心事で、昨夜、お互いのルームメイトの協力を得て二人きりの部屋を確保し、明日には学園じゅうの噂だねと笑い合いながら彼のベッドの上でキスをした。それから、彼が僕の服を少しずつ脱がせて、僕も初めて彼の裸を目にした。想像よりずっと濃い脇毛、それよりもっと濃い、臍の下。突き出した形も色もグロテスクで、ふと湧き上がった嫌悪感をどうしたらいいかわからないまま、それを咥えさせられていた。口の中に一回、それから、僕の中には何回出したのかわからない。終われ、はやく終われ、頭の中はその思いだけでいっぱいで、ようやく満足した彼の優しい抱擁から逃げ出した僕には戻れる部屋がなくて。
遭難者のように震えながら駆け込んだのは、先輩の部屋だった。
成り行きで所属した園芸委員会の委員長は、絵に描いたように優しくて真面目でおまけに冗談も通じる素晴らしい人格者だ。勉強を教わったり、悩みを相談したり、先輩にはいつも助けてもらっていた。先輩が寮内でも稀有な一人部屋の住人でなかったら、僕は裏庭の草むらあたりで朝まで惨めさを噛み締めることになっただろう。
嗚咽しか出なくなるまで吐いて、水道の水で口を漱ぐ。
鏡の中の青白い顔の自分。
きつく吸われた唇の端が、気味悪くうっ血している。
内側の肉は彼の性器の形を憶えていて、まだ、あの形に広がっているのだと思う。
僕は彼が気色悪い。僕は彼が嫌いだ――僕は最低だ。
鏡の中の自分を殴りたい衝動を抑えて、抑えたつもりで洗面台の縁を掴んだ瞬間、目の端でぐらりと細い花瓶が揺れる。
ガシャン。
飛び散った水と、砕けたガラスと、無残に投げ出されたしおれかけのバラ。
心の優しい先輩は、間引いたバラをこんなふうに飾っていたんだ。
「――マリヤ?」
らしくない荒い足音と、焦った声がする。
呆然と俯いたままの僕の唇だけが、自動人形のように勝手に動く。
「先輩、すみません、花瓶を割ってしまいました」
「いいよ、そんなとこに置いといた俺が悪い。危ないから触るなよ」
遅れてことの重大さに気づき、慌てた僕がしたことは見事に先輩の言いつけを破ることだったし、
「痛っ」
「鞠谷、バカ」
さらに愚かなことに僕はガラスの破片で指を切ってしまったらしい。
先輩の大きな手は美しい動作で僕の指を消毒し、あっという間に絆創膏をくるりと巻き付ける。手当をしてもらうのはこれで二度目だ。一度目は、温室のバラを剪定している時に棘を刺して、不器用を揶揄われながらやはりこんなふうに向かい合って絆創膏を巻いてもらった。
「せっかくきれいな手なんだから、大事にしろよ」
ふふ、と笑って言う先輩は、僕をこの部屋へ匿ってから一度も理由を訊かない。噂はきっと夜明けを待たずに寮内に広がっているはずなのに。シャワーを貸してくれて、おやすみと言ってベッドを貸してくれて。自分はさっきまで、重ねたクッションと予備の毛布で寝ていた。
ガーゼ面からじわりと染みる血の色を眺めながら、なんだかこの部屋が懺悔室のように思えてきて、もちろんそれは僕の錯覚だし欺瞞なのだけれど、先輩の温かい手のひらから手をどけることができないまま僕は呟いていた。
「僕……最低です……」
「どうして?」
「好きだって言われただけで、簡単に好きになっちゃって……でもそんなの、まやかしで」
「そんなふうに言うなよ」
「本当のことです。僕、誰かに好きって言われたの、はじめてだったから」
「ああ、それは……当然かな」
鑑定でもするように僕の手をひっくり返して、細かい傷を探してくれていたのだろう。ついでのようにさらりと言われたことを、僕は聞き逃せなかった。
「どういうことですか?」
先輩は目を上げると、困ったように笑い、すぐにその笑みを引っ込めた。
「いや。鞠谷にはさ、不可侵協定があったから」
「ふか、しん」
「ふかしんきょーてー。学園のマリヤ様には、特定の相手を作らせない、誰にも汚させない、っていう協定」
「なんですか、それ」
「そのまんまの意味。お前って、そういう存在。で、それ破ったのがあいつ」
生まれて初めての告白。人の行き交う廊下で、好きだって言われた。恥ずかしかったけど、すごく嬉しかった。
「……なに、それ」
「俺らの勝手な都合だよね。けど、お前もあいつを選んだ。お前がもちろん聖母でもなければ聖人でもない、俺らと同じ人間だってこと、あいつだけが尊重してたんだって気づいたよ。せめて幸せになってほしいなんて……さ」
先輩の目蓋が、頼りなげに震えている。
僕よりずっとずっと大人びていて、気後れしてしまうくらいだったのに。見慣れない寝癖頭のせいか、眼鏡をしていないせいか、今はひどく子供っぽく思える。軽く包んでいた僕の手を一度は僕の膝の上へ返したが、先輩はすぐまた僕の手を握った。
「俺ら……あいつも含めて、俺ら、みんな。お前を傷つけたな。最低だよ。ごめんな、怖かったんだよな」
最低なのは僕だし、傷つけたのは僕だし、謝るのは僕だ。
「うん……こわかった……」
それなのに。唇から勝手に音が零れて、目の奥がぎゅっと熱くなる。
「許してくれなんて、本当は言えないけど……俺を、許してよ」
一晩じゅう堪えていた涙がついに溢れてしまったせいで、先輩がどんな顔をしてそれを言っているのかはわからなかった。僕は先輩の懺悔を聞いてどうしてか安堵してしまい、ただただ声をあげて泣いたのだ。
終わり
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