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ネクタイは借りたまま

 初めて送ったメッセージの書き出しは、『お久しぶりです』だった。  今まで何度も連絡しようとして、勇気が出ずに一度も出せなかった。下書きに溜まった数件のメッセージはどれも宛先のみの空欄で、しかしそうやって送り損ねたメッセージの数だけ、僕は彼を心に刻んでいたのだろうと思う。  お久しぶりです。  お元気ですか?ずっと連絡できずにすみません。  僕はおかげさまでやっと落ち着いてきました。  以前にお借りしたネクタイを返しそびれていましたので、  もしご都合が良い日があれば、お返ししたいのですが……  再会の約束は、その週末の金曜日に定められた。  そもそも連絡なんて取れないかもしれないと思っていたし、そんなもの返さなくていいと言われるかもしれないとも思っていたから、心底驚いてしまって、書きかけの返事を何度も送信してしまった。  しばらく訪れることのなかった街の、懐かしいとさえ思える駅の改札を抜けてほんの一、二分歩いたところ。見知らぬバーが約束の店だった。 『一番奥のテーブルにいます』  数分前に受け取ったメッセージのとおり、一番奥の壁際、オレンジのランプに照らされた、濃い色のスーツを着た男。長い脚を持て余すように座っていた彼が、僕に気づいて軽く手を挙げる。 「アキラ先生」  呼び方に、シャツの下の心臓が、ほんのり苦く、そして甘く疼いた。 「もう、先生じゃありませんよ」 「そうだった。じゃあ、アキラくん。久しぶり」 「お久しぶりです」 「少し痩せた?」 「かも、です」  彼は労わるように笑って、僕へ残しておいてくれたのだろうソファー席を勧めてくれた。ちょうどよい、一人掛けのソファーだ。 「今日は飲める?」 「ええ」 「オーケー。じゃあ、どれにする?」 「斉木さんは?」 「ワインの気分だな」 「じゃあ、僕も」 「無理してない?」 「どうして?」  まるで友人のような会話に戸惑う気持ちを隠すのに精一杯で、実のところ、なんでもよかった。斎木は辛口の赤ワインをデキャンタで、それにミックスナッツとスナックピザ、僕から引き出したリクエストのフライドポテトを注文すると、長い脚を組み替えて笑った。 「少し痩せたけど、元気そうでよかった」 「はい。あの、レンくん、元気ですか?」 「うん。毎日手を焼いてるよ。気にしてくれてありがとう」 「そんな」  口ごもった理由は自己嫌悪を中心とした自分自身に向けた感情だったが、彼はそう思わなかったらしい。唇の端で少し笑うと、清潔感のある七三分けの髪を軽く撫でた。 「元々、長続きするわけないって周りから散々言われてたけど。実際そうなると、腹立たしいとか悔しいとかいうより、なんというか、自分で自分にがっかりするよなあ」 「そんな。そんなこと」  僕は去年まで、保育士をしていた。  彼はそこに一人息子を送り迎えする良き父親であり、僕はと言えば、園で最も未熟で不出来な職員だった。新卒で入った園を、結局、たった二年で辞めたのだ。 「斉木さんは、いいお父さんでしたよ。なんて、僕が言っても説得力ないですね。ほんとうに見る目がなくて、だめで」 「それ、『俺』を見る目がなかったってこと?」 「まさか、違います」  慌てて顔を上げると、どこか人を食った笑みに捕らえられる。 「アキラ先生――アキラくん、あいかわらず、かわいいよな」  頬が熱くなった直後に運ばれてきたワインを、だから僕は、ひどく恨めしい気持ちで睨んでしまった。もう少し早く来てくれたら、ごまかせたのに。 「アキラくん、でも市役所なんだな。公務員のまま」 「いえ、嘱託ですよ。一般企業は全滅だったから」 「そっか。でもよかった、決まって」 「斉木さんのおかげです」 「俺?なんにもしてないでしょ」  保育園に通う子供の家庭環境は、下手なドラマ顔負けのものもあれば、絵に描いたように円満なものもあった。斉木家は一見すれば後者であったが、その後夫妻は離婚したから、どこかの時点からはそうでなかったのだろう。彼の息子をゼロ歳児クラスで担任して、翌年も持ち上がりで受け持った。と言っても僕は担任ではなく補佐的な役割で、ろくに保育に関わらなかったと思う。保護者の一部から男性保育士のおむつ替えを拒否されたり、逆に珍しがられて奇妙に目立ってしまったり、愛情に受えた子供のスキンシップを上手く受け流せずに悪化させて問題になったり、他の職員も僕に何の仕事を割り振るべきかでずいぶん難儀していたらしい。  一般論では経験が成長を促すし、僕もそう思っていた。あと一年頑張ろうと思った矢先だった。いつものように一時間の延長保育がぴったり終わる時刻に迎えに来た彼が、息子を半分抱え上げながら、明日の天気の話でもするように言ったのだ。 「辛いんだろ?辞めちゃえよ」  って。  閉園直前のがらんとしたクラスで、僕は堪えきれずに泣いた。 「斉木さん」 「ん?」 「これ。ずっとお借りしっぱなしで、すみませんでした」 「わざわざ返さなくてもいいのに」  就活に困るだろうと貸してくれた、一本のネクタイ。青系より赤系が似合うと言って、ボルドーのストライプ柄を選んでくれた。ちょうどいい大きさの紙袋がなくて、伊勢丹まで意味もなく買い物に行ったなんて知られたら憤死ものだ。 「迷ったんです」  彼は知る由もないが、僕は酒に弱い。  椅子の背もたれに頓着なく紙袋を引っかけて、斉木はこくりと赤ワインを飲んで、ついでの仕草で僕のグラスの水位を数センチあげる。 「何を?」 「返そうか、ずっと、持っていようか」 「はは、どうして?」 「僕には、これしかなかったから……」  言ってしまった。  激しく狼狽する僕を、ほんの一杯ですっかり酔っぱらった僕が、指差して大笑いしている。 「返しちゃったら、もう、会えなくなる」  僕のセリフは、僕の知る僕の声よりもずっと低く、穏やかで、少しスモーキーで。 「なーんて?」  それが、向かいで電子煙草をセットしていた斉木の声だと、彼がやがてスティックを咥えながら悪戯っぽくそう言うまでわからなかった。 「俺も迷ったよ。でも、ネクタイをきみにもう一度貸すから、もっと、そばにいてよ」  いつも胸ポケットにメヴィウスを入れていたけど、あの時はまだ普通の煙草だった。いつから電子煙草に変えたんですか、とか、今もあのマンションに住んでいるんですか、とか――話しても、いいんですか。 「アキラくん、顔が赤いよ」 「――僕、弱いんです」  すっかり酔っぱらった僕はソファーにしなだれかかって、激しく狼狽する僕を、ふふふ、と笑った。 終わり

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