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彼は僕の恋人

 コロコロをかけ終えたホットカーペットの上で、膝を抱えている。  待ちわびているのか、永遠に来なければいいと思っているのか、自分でもわからない。  ピンポーン、とチャイムが鳴ったのは、約束よりほんの少し遅い時間だった。 「よ」  開けたドアの向こうの彼は、寒さで鼻の頭を真っ赤にしていた。 「あけましておめでと。あ、もう言ったか」 「あ、うん。えと、入って」 「おじゃましまーす」  明るく言って、玄関に踏み入れる。 「これ、おみやげ」 「いいのに」 「なーんて、俺が食べたかっただけ」  いひ、と悪戯っぽく笑って、細長い箱を僕へ渡す。 「ドーナツなんて久しぶりかも」 「そう?俺好きなんだよね」 「へえ」  もう二年以上の付き合いなのに、まだ知らないことだらけだ――だって、仕方ないだろう。ついこの間まで、僕は彼の大勢いる友達の一人でしかなかったのだから。 「理人(りひと)、相変わらず部屋きれいにしてんな」 「え?」 「あ、だめだった?」 「……ううん、だめじゃない、けど」  彼の口の中で穏やかに転がされた自分の名前に、ひどく驚いて――照れている。しどろもどろに返事をする僕にまた笑いかけて、彼はよく似合うグレーのチェスターコートを脱ぎ始めた。  幼い頃は、大人になれば自然に恋人ができるものだと思っていた。恋人どころか異性の友達もほとんどできないまま中学、高校を卒業し、その頃にはもう自分の勘違いにはじゅうぶん気づいていた。恋人は自然にできるものじゃない、とか、そういうありふれた格言めいたことではなくて。クラスの女子に一度もときめかなかった理由を根本的に勘違いしていたことにだ。  故郷を離れて進学した大学の、大教室での最初の授業で。生まれて初めて一目惚れをした。  清水春平はきれいな男だった。  すらりと背が高く、手足が長く、いつも洒落た出で立ちでいる。その上いつもにこにこと明るく、話し上手で、成績も良くて……当たり前のように僕らグループの中心になった。僕はそのグループの、たぶん、一番外側のその他大勢の一人だった。そのポジションはむしろ僕にとって心地よく、いつでも諦められる口実にもなったし、失う物の軽さは失恋へ飛び込む勇気にもなった。  帰省中の実家の炬燵から、彼にラインを送った。大晦日が元旦へ変わった瞬間だった。  あけましておめでとう。  ――あけましておめでとう!今年もよろしく  あのさ。  ――うん。  好きです。  ――え?  ごめん。  ――なんで謝った?  伝えたかっただけとか、勝手でごめん。  ――いいよ。てゆうか、じゃあ、俺たち付き合おう。 「コーヒーと紅茶、どっちがいい?どっちもインスタントだけど」 「理人と同じでいいよ、二種類作るの手間でしょ」 「清水が決めて。お客さんなんだから」  わざとらしく言ってみせると、一瞬考えるような間のあと「コーヒー」と返ってくる。残念ながら、お互い属する派閥は別々のようだ。 「ねー、理人、今日は眼鏡なんだ」  いつ言われるのだろうかと覚悟はしていたが、実際そうなると、用意していた弁明など役に立たない。 「や、なんか今日、朝から目がごろごろしちゃって、コンタクト全然入らなくて……ハードだからさ、たまにこういうことあるんだけど……あの」 「うん?」 「変……だよね」  眼鏡の似合う顔立ちでないことは、自分が一番知っている。  レンズを隔てた先で、ネコ科の高貴な動物のような彼の目元がゆっくり細められる。 「かわいいよ」  目線が、声が、背中を首筋を耳元を撫でるような錯覚。 「……な、なな、なに言って」 「わは、ほんとのこと。そうやって恥ずかしそうにしてるとこが特に」  熱くなった頬を両手で押さえて、僕はキッチンに逃げ込んだ。  外は寒いし、どこもまだ混んでるから、戻ったら家でゆっくりデートしたいな。そう言ったのは彼だ。なんのつもりかわからないけれど、僕の告白が通じなかったわけではなく、拒絶されたわけでもなく、彼は僕の恋人になってしまった。  インスタントコーヒーをスプーン一杯ずつ入れたマグカップに、電気ケトルの熱湯を注ぐ。コンビニに買いに走った角砂糖とミルクをストッカーから出して、テーブルに置く。 「いいにおい」 「インスタントだよ」 「いいじゃん、インスタント」  彼はコーヒーにミルクだけ入れて、スプーンでかき混ぜている。  僕はといえば、角砂糖を二つに、ミルクも一つ必要だ。  しばしの無言。甘い結晶が溶け出すのと一緒に、コーディングしたはずの自分の気持ちが露わになっていく気がして、まともに彼の顔が見られなくなる。  俺のどこがいいの、とか、ほんとうに俺なの、とか、もし揶揄っているなら今すぐやめてくれ、とか。言うのは今でなくていいと思っている僕は狡い。遊びでいい。気まぐれでいい。今は、今だけは、僕は彼の恋人なのだ。 「理人、どれ食べる?」 「……春平は?どれが好き?」  眩暈に似た羞恥を堪えて、目を上げる。彼はゆっくりと端整な口元を手で覆い、その隙間から囁くように言った。 「理人……ごめん、もう一回」 「……しゅん、ぺい?」  いひひ、と、また顰めるように笑って。薄い目蓋を、形の良い耳たぶをピンクに色づけるから。  なんだ。なんだこれ。  僕は口から出そうな心臓を押し戻すように、熱々で激甘のコーヒーを口に含んだ。 終わり

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