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第2話
騒がしい周囲に一瞬、目を走らせる。
受ける熱い視線も喧噪も、紫音にはただの風景として映る。男も女も、その他も、動物も無機物も何もかも、すべてが一緒。兄以外は。
兄は努力の人だ。
生まれ持った才能を良しとせず、高い目標に向かって顔を上げ続けている。隙を見せずかと言って冗談が通じない訳でもなく、部下から信頼され上司からの覚えもいい。それは自分との関係でも変わりなく、兄として、年長者として、常に弟の自分への道しるべであろうとしている。日常的に体力作りも怠らない。
そんな兄が誇りであり、とても愛おしい。
友人からの誘いを断り、声を掛けてきた見知らぬ人間を鋭い一瞥で黙らせ、紫音は内心舌打ちをする。
迂闊(うかつ)だった。
指を折って数えても、予定よりだいぶ早い。だが間違いない。
――発情期、だ。
今朝、兄の香りを敏感に感じ取ったのは他でもない、予兆があったのに。
歩幅を広げて風を切りながら、同時にスマホで兄の勤務を確認する。これならば一週間ほど休暇を取っても問題ないだろう。それにバースの公休が認められている現代、取得率をあげるよう各企業も謳っている。むしろ絶対数が少ないとはいえ、アルファやオメガがフェロモンを発したら最後、会社が機能しなくなる可能性もある一種パンデミックとの認識が広がりつつある。
ピッ。
自宅専用のエレベーターを待つ時間すら惜しい。扉が開いた途端、滑り込ませる身体。無意識にボタンを連打して、やっともたらされた浮遊に身を任せ、上がった息を整える。
男女よりさらに細分化された性として、アルファ、ベータ、オメガが確認されている。カースト制とは言いつつも、数としては一般的とされるベータの絶対量が多いためひし形で形容されることが多いが、相互作用にはそれぞれが関わってくる。王者として君臨するアルファは希少であり、その子を産むことができるのは底辺とされているオメガのみ。それは同性でも変わらない。
力関係は対等とまでは言わないまでも、オメガといわれる部類が蔑ろにされた時代は疾うの昔。現在は権利擁護もされ、むしろ保護される対象となっている。ただ、根強い差別は根絶されたとはイコールではない。そして今までは、アルファがオメガを独占的に囲っていたため世間に偏った知識が蔓延(はびこ)っていたとも言い換えられる。そのためにオメガに対しての研究が遅れているのは事実。
「ただい――」
帰宅のあいさつもそこそこに、扉から漏れる匂いに目を眇めつつ確信を深める。
触発され頬が、身体が、熱を増す。
今度こそ紫音は舌打ちをした。
玄関から続く衣類は、家を出た時には見られなかった物。普段は整理され、散乱していることはない。
はやる気持ちのままノブに手を掛け、ひと呼吸置く。
――まだ、だ。
まだ早い。
深まる匂いと共に、目にした光景に人知れず口角を上げる。
「……ぁ……しぉ、ん」
自分の私物に囲まれた兄が、瞳を潤ませていた。
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