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第2話 手錠とこの吸盤つき手枷で、一体どれほどの違いがあって彼はこんなにフィーバーしているのか

 ドアを開けると、綾斗の匂いがさらに濃くなる。そこには洗面所があり、個室に続くドアがある。トイレはこの個室一つのようだ。この中に、綾斗がいる。  ドアをノックしようとすると、中から「重春さん……」と綾斗が熱っぽい声を出した。綾斗だってアルファの匂いを感じている。九条が近づいてくるのはわかっただろう。 「開けてくれ」  そう言うと、内側からドアが開いた。途端、オメガフェロモンの濃度がひときわ濃くなる。それに一瞬陶然としていると、腕をつかまれ、ぐいっと中に引っ張り込まれた。背後でバタンとドアが閉まり、カチャッと鍵がかけられる。中に入るつもりはなかったのに、いつの間にか、密室で二人きりになっていた。  綾斗は九条の体をドアに押しつけるようにして立っていて、うつむいて息を乱している。アルファの匂いに興奮しているのだろうか。とにかく落ち着かせようと声をかけた。 「綾斗、ドアを閉めたら匂いがこもる……」  そう言い終わる前に、つかまれたままだった腕の手首に何かがびっと巻き付けられた。 「……?」  黒いマジックテープだった。しかも短い金具がついていて、その金具の先に大きな吸盤がついている。  この店で購入したグッズだと思うが、使用用途がわからない。なんだこれはと思っていると、もう片方の手首にもマジックテープを巻かれた。 「おい、なんだこれ……」 「重春さんっ」  唐突に顔を上げた綾斗にひたっと見つめられ、その勢いに一瞬たじろぐ。その()に彼は両手で吸盤をつかむと、背後のドア、九条の腰の高さの辺りに、ばん、ばん、と吸盤を押しつけた。  ……?  手を動かそうとすると、びん、と手首が引っ張られ、動かせない。  それはそうだ。  吸盤には、手首に巻き付けられたマジックテープがついているのだから。  つまり。  九条は今、ドアに両手を固定されていた。  ……ああ、こうやって使うのかと、奇しくもこのグッズの用途を身をもって知ることになった。 「……」  助けにきたのに、まさかそれを本人に邪魔されるとは思いも寄らず、説明を求めて彼を見ると、彼は……ひもじい思いをした小動物がやっと食べ物にありついたような顔をしていた。  ――これは、まずい。  今までの経験から、綾斗の取扱注意のゲージが、一気にマックスまで跳ね上がった。  ここからは、対応を間違えたら、詰む。  むせかえるような甘い匂いの中、鼻で息を吸わないようにしながら、九条は努めて冷静に言った。 「綾斗、ここは駄目だ。ラブホに移動しよう。すぐ近くにある。君を背負って走ればすぐだ。三分……いや二分で着く」  はぁーっ、はぁーっという息づかいだけが返ってくる。構わず続けた。 「ここは店のトイレだ。公共の場だ。わかるな? それにラブホの方が広い。時間も気にしなくていいし、なんでもできる。そっちの方がきっと楽しい、いや絶対に楽しい。だから場所を変えよう、な?」  これ以上なくわかりやすく、言葉を尽くして説得を試みるものの。 「ここで、するぅ……!」  そのシンプルな一言で、却下された。  ……。  ……まぁ、だよな。  発情している人間にまともな分別を求めたのが間違いだった。  ならば、仕方ない。  ふぅ、と息を吐き、呼吸を整える。  この程度のおもちゃ、力尽くで引き剥がせる。  九条はドアから手を引き剥がすべく、右手に力を入れて勢いよく引っ張る。すると、ギシィッ! とドアが悲鳴を上げ、その予想外に大きな音に、綾斗がびくうぅっと反応した。  ……。  九条は背後のドアを見た。それなりに経年劣化が見てとれるドアだ。  多分、自分の手を力尽くでドアから引き剥がすこと自体は、できる。  だが、思いのほか吸盤の力が強い。下手に力を入れれば、この玩具ではなく、ドアの方が壊れる可能性があった。  想像する。  アダルトグッズの店のトイレで、購入した商品を試してドアを壊す。そんなことをすれば、経緯を店のスタッフに話して謝罪しなければならないだろう。  …………いや、それは、ない。  こんなところでヒートを起こしてトイレに立てこもり、その上、つがいのアルファがやってきてドアを壊すとか、まさに迷惑極まりないバカップルである。  そんなあり得ない醜態をさらすぐらいなら、ここで、店のトイレで、つがいと体を重ねてヒートを鎮める方がまだマシではないか。 「……」  力はあるのに、抵抗できない。  そんな状況が日常生活であるのかという、まさに衝撃の思いだった。  そしてその時、九条は体が一気に熱を持つのを感じた。ラットだ。密室だったためか、予想よりはるかに反応が早かった。  ラットが来た以上、もう場所の移動はできない。 「……」  九条は呆然とするが、一方、目の前では、綾斗がものすごくしっぽを振っていた。ラットでアルファの匂いが濃くなったのか、ますますとろんとした顔をしている。  あとはもう、わずかなきっかけで、このエロチワワの暴走が始まるのは目に見えていた。  冷や汗が首筋を伝う。  もう、ここで(いた)すのは仕方ない。だがせめて、この吸盤は外してもらえないだろうか。  その交渉の余地をなんとか探ろうと、九条はとにかく口を開いた。 「そもそも……なんで君はこんなところに来たんだ。発情期に」 「え……それは……仕事でこの近くに来る用事があって……。あの、この前、新婚旅行の話をしたじゃないですか」  した。 「それで、僕もいろいろ準備しなきゃって思って……」  発情した顔に少しだけ恥じらいを浮かべた彼に、九条は猛烈に突っ込んだ。 「なんで新婚旅行の準備がこれなんだ!?」 「だって!」  彼は目を潤ませながら訴えた。 「こんなの――あ、それ『吸盤つき手枷』っていうんですけど、そういう新しいグッズを使いたいって思っても、普段はなかなか言い出せないじゃないですか! でも、新婚旅行なら非日常だから、勢いでOKしてくれるかなって……。そう思ったら、新婚旅行ってすごいチャンスじゃないですか!? まさに僕たちの今後が、かかってる気がして!!」  ……。  両手が自由なら、九条は頭を抱えたかった。  というか、手を拘束するプレイなら、今まで何回かしている。彼は手錠プレイが好きなので、家に手錠はあるのだ。  その手錠と、この吸盤つき手枷? と、一体どれほどの違いがあって彼がこんなにフィーバーしているのか、もはや九条の理解を超えていた。 「いや……うん、わかった。君がいろいろ考えていたのはわかったが、別に、新婚旅行と言わず、いつでも家で使ってくれていいぞ……? だから今は外してくれないか?」  そう、綾斗に何も損にならない真っ当な提案をすると、彼は、ん? という顔をして考えようとした気配はあった。  だが数瞬後に、くわっと目を見開いて言った。 「僕、取引先の人に言われたんです! 明日(あした)死んでも後悔しない生き方をしなさいって!」 「いや、それを適用する場面か今!?」  脊髄反射的に言い返したものの、ヒートを起こしたつがいには通用しなかった。 「重春さんっ、僕、もう我慢できません……!」  綾斗はとうとう自分のベルトを外し、スーツの上下を脱ぎ捨てて近寄ってきた。  ……詰んだか……。  もうこうなってしまっては、彼の気がすむまでつき合うしかなかった。

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