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風薫る[3]

 厄介な想いを抱えたまま、なるようになれと開き直って日々を過ごす。  根本的解決、つまりこの恋愛感情らしきものがなくなるまでは大部時間がかかるみたいだから、辛い、しんどいって気持ちを無理やり押さえ込むのはやめにした。ずっと捌け口になってくれている歩には感謝しかない。  この間匠が突然、ボクも話聞くからねと告げてきた。前後の脈絡もなく、あまりにも唐突に出てきた言葉だったから、お、おう、みたいな半端な返事を返してしまったが、機会があれば全力で頼ろうと思う。歩がお母さんなら、匠はお父さんみたいだ。包容力バッチリの、頼れる優しいお父さん。  都大会当日二日目。  大会は四日間かけて行われるから、馬場の出場種目で言うと一日目の昨日は100mの予選1本だけ、今日がその準決勝、決勝。200mは同じ日程で来週ってことになる。ちなみにわが校はリレーは既に地区で敗退している。  馬場の本命は今日の100mだ。陸上の花形。シンプルに速さを追及するディスタンス。昨日の予選は無事に組一位で通過していた。  幸い五月らしい爽やかな陽気で、少し日差しはあるものの風は微かでタイムも出やすそうだ。来週もこの気候が続いて欲しいものだなと思う。  都大会は出る人数が少ないし、まだ慣れてない一年は誰も進出してないから、そんなにあちこち見回って指示する必要もない。馬場のサポートをメインでやれると俺は張り切っていた。  午前中の準決勝は八人三組のレース。決勝へ上がれるのはそれぞれの組上位二人とタイムで競ってプラス二人。タイムでの繰り上がりは当てにならないので、何とか二位までには入って欲しいところだ。 「そろそろだな」  招集時間を前にして馬場に話しかける。  おうと応える馬場の目は集中力で漲っていて、下手に何か言って邪魔する必要はない。  ただ、信じて待っていればいい。  結果として準決勝は組二位で通過。一位との差は僅かだった。まあ陸上においては、その百分の一秒なんて単位が随分と高く立ち上がる壁になるんだけど。  準決勝全体のタイムでは五位だった。決勝で六位までに入ればブロックに上がれる。馬場はずっとそこを目標としてきた。行ける、多分。きっと。絶対。そう思うと気持ちが逸る。  決勝までは結構時間があるから、一回身も心も緩めて腹ごしらえもして、もう一度集中を作り直す必要がある。その僅かな休憩時間に、馬場は歩と一緒に見にきている悠に会いに行っていた。  今日はいつもより苦しくない。むしろ悠と会って緊張がほぐれるならそれでいい、大事なのはメリハリだと冷静な自分がいる。目の前の馬場のために出来る仕事に思考や神経を費やしてるからかもしれない。 「おかえり。軽くほぐすからそこ寝転がって」 「サンキュー、頼むわ」  身体のメンテナンスなんて一番大事なことを任せてくれる信頼が、馬場と俺の間にはある。唐突にそんな風に思った。悠と比べるわけでもなく、ただ事実として。そして、それを幸せだと感じた。  決勝へ向かう直前、少し緊張が見えた馬場に俺は初めて自分から抱きついた。不思議と全くドキドキしなかった。高揚感はあったけど。  抱きついたまま、馬場の背中に回した手でポンポンと二度、軽く叩いた。 「馬場なら行ける。信じて待ってるから」  身体を離してか顔を見上げると、馬場は本当にいい表情をしていた。 「おう。任せとけ」 「うん。行っておいで」  スターティングブロックに足を掛け身体を屈める馬場を、ゴール付近で見つめる。  緊張はしてるけど、不安はない。  号砲が、鳴り響いた。  一瞬のようで、永遠のような時間の中、馬場の走る姿を目に焼き付けていた。  選手達が雪崩れるようにゴールに飛び込んでくると、張り詰めた空気が一転して慌ただしくなった。    順位はどうだった?!タイムは?!   「順位出た!四位だ!」  歓喜の雄叫びを上げながら、馬場のもとへ走る。 「日辻!」  お互いの勢いのまま、ぶつかるように抱き合って歓喜を分かち合った。  「やったな!」 「うん!」 「タイムも!自己ベスト出てる!」 「おう!」  馬場がそのままの体制で言った。 「日辻のおかげだよ、本当にいつもありがとう」  あぁ俺はこれで良かったんだ、これが良かったんだと今はっきりと思った。  何時だって欲しかったものは恋人の愛情ではなく、アスリートからの信頼だった。   「まだ行ける。もっと上を目指そう」 「そうだな。日辻。これからも頼むな」 「こちらこそ」  もう、未練も迷いもない。  翌週の200メートルもギリギリ六位で通過して都大会を終えた。  また日々の練習へと戻る。  陸上部のマネージャーはどちらにしろ忙しい。本当は落ち込んでる暇などなかったのだ。  目の前を今年入ったばかりの新入生の子が跳んでいく。 「いい空中姿勢だね」  中学でもハイジャンをやっていたという後輩は、今年は都大会には進めなかったけど、きっとすぐにももっと高くを跳べるだろう。 「もうちょっと上げてやってみよっか?」 「えー」 「よし。これ位」 「いや、先輩むちゃぶりっすよ」 「行けるって。挑戦していこう。はい準備して」  より速く、より高く、より遠くへ。  昨日より今日、今日より明日。  陸上は一番シンプルな肉体への挑戦だ。  俺は今日も、その美しい姿を支えていく。

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