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8.嵐の到来
☆PM.8時40分
やっと性欲を満たした優人と光は、脱ぎ捨てていた下着やスーツを着込み、またシャンパンで喉を潤していた。
二人の座るシーツの真ん中は、先ほどの情交で放出された白濁に、グッショリと濡れている。
「……お借りしたシーツ、どうしましょう?」
「心配無いよ。使い終わったら、洗濯室に放り込んでおくように言われてるからね。後は――」
優人が飲んでいたシャンパンのグラスを傾け、濡れたシーツの上に溢した。
白濁の青臭い匂いに、シャンパンの香りが混ざる。
「はい、証拠隠滅」
格好付けてウインクする優人に見惚れて、光は小さく笑った。
「もうすぐ9時か……」
「確か、メインパーティーの時間ですよね?」
時計を見て呟く優人に、光が確認する。
今までは『挨拶』と『顔合わせ』を兼ねた立食パーティー。
これから始まるのは、本来の趣旨である『百合亜の誕生パーティー』だ。
この日のために用意された高級スイーツ店のケーキや、パーティーを盛り上げるイベントなども開かれるらしい。
「丁度お腹も空いてきたし、そろそろ会場に戻ろうか?」
「そうですね」
軽く体を伸ばしながら立ち上がった優人が、光に向かって手を差し出す。
にっこり笑ってその手を取った光は、立ち上がると同時に、優人の腕の中に抱き寄せられた。
二人でクスクスと笑いながら、ついばむようなキスを繰り返して、次第に熱く舌を絡め合わせる。
クチ……チュプ……
卑猥な水音を奏でた二人の唇が離れ、透明な糸が優人と光の舌を繋ぎ、プツンと儚く消えた。
満足そうに笑った優人が、いつの間にか取り出した箱を、光に差し出す。
「はい、これ。光にもプレゼントだよ」
「ありがとうございます。何ですか?」
嬉しそうに頬を上気させた光は、手のひらサイズの箱を受け取り、しげしげと観察した。
真っ白な箱に、金色で縁取りされた赤いリボンが掛かっている。
蓋を開けて見ると、中には白薔薇を基調にした、小さくて上品な花束が入っていた。
「僕の作った魔法のコサージュだよ。これを胸に飾っておけば、悪い虫が寄って来ないからね」
「はい。凄く綺麗……」
うっとりとコサージュを見詰めた光が、丁寧に箱から取り出し、自分の胸元に飾った。
「さぁ、行こう」
「はい」
展望デッキの出入口を開けた優人が、濡れたシーツやシャンパンとグラスなど、桐斗に借りた物を両手に抱える。
「僕はコレを返してくるから、光は先に会場へ戻っていておくれ」
「私も手伝いますか?」
光の申し出を、優人は笑って断った。
「これくらい、なんて事無いよ。それより、会場に戻ったら僕の分も、何か料理を確保しといておくれ」
「分かりました。先に戻りますね」
優人と別れて、会場に戻ろうとした光は、先にトイレへ行く。
風に乱れた髪を直さなければ、光と優人が一緒にいた事が、百合亜にばれてしまうかも知れない。
トイレ入口の大きな鏡で、髪に櫛(クシ)を入れていた光は、ふっと鏡に映る自分の胸元にうっとりと微笑んだ。
優人の作ってくれたコサージュに、光は指先でそっと触れる。
優人にはいろいろなプレゼントを貰うが、やはり手作りの物は格別に嬉しい。
光のためだけに花を選び、人避けのルーンを台座に刻んで、職人顔負けの物を作り出す優人。
自分のためだけ、という事が、光は特に嬉しい。
もう一度コサージュに触れて微笑んだ光は、軽い足取りで会場に向かった。
しかしその途中で――
「バルドル様……?」
思わず光の足が止まる。
同年代くらいの女性の声だったが――なぜ前世の事を知っているのだろう?
第一、今光は、優人のくれた『人避けのルーン』を身に付けているのだ。
他人に意識されないはずなのに、なぜ、光の事が分かったのか――
背筋を緊張させた光は、全身で警戒しながら、ゆっくりと振り替える。
「あぁ、やはりバルドル様なのですね!」
声の主は、やはり三十代後半の女性だった。
企業関係者なのか、スラリとした長身を女物のスーツに包んだ美人が、光を見て嬉しそうに顔をほころばせている。
しかし光は、彼女に会った覚えが無い。
「あなたは……」
光が声をかけようとした時、急にその女性はハッとして、なぜか慌てた様子で光に駆け寄ってきた。
「バルドル様……! どうか、フレイ様をお助けください!」
「フレイ様? あっ、あなたはもしかして……」
光の脳裏に、ある女性の姿が浮かんだ。
けれどそれを確かめようとした時――
!ズドオオオォォォォンン!!
何かが爆発するような音と共に、船がグラグラと揺れだした。
「キャー!」
「危ない!」
バランスを崩して倒れそうになった女性を、光が抱き止めるように支える。
同時に、ウィー! ウィー! と、非常警報が鳴り響いた。
『非常事態発生。非常事態発生。ご乗船のお客様は、落ち着いて、速やかに係員の指示に従ってください。非常事態発生――』
機械的な女性の声が、船内放送で繰り返される。
光は女性を抱き締めたまま、壁際に寄ってじっとしていた。
彼女は前世でも背の高い女性だったが、それは現世でも変わらないらしい。
遠くの方で係員の物らしい叫び声が聞こえる。
『当船はただ今、突発的な嵐に巻き込まれています。現状が把握できるまで、隣の会議室に避難してください』
船内が激しく揺れているお陰か、乗客達は混乱して慌てる余裕も無く、ゆっくりと移動しているらしい。
光も移動しようとしていると――
「光!」
進行方向の反対側から、優人の声が聞こえた。
光が振り替えって見ると、壁に手をつきながら、優人が早足で向かって来る。
「優人!」
歓喜の声を上げた光は、無事を知らせようと、高く手を上げて振った。
近付いて来る優人を見て、光に抱き締められていた女性が、ハッと息を呑む。
「ロキ!?」
「大丈夫、今は私の味方です」
光が、警戒している女性を宥めていると、光の所に辿り着いた優人がホッと安堵の息をつく。
「無事で良かった……光? 彼女はもしかして?」
光は重々しく頷いた。
その時、またドオオォォォン! と、爆発のような音が響き、立っていられないほど激しく船が揺れた。
「危ない!」
優人が光と女性を守るように抱き締め、ゆっくりとしゃがませる。
会議室に避難しようとしていた乗客達が、恐怖に甲高い悲鳴を上げていた。
「さっきまで、あんなに晴れていたのに……」
「何かおかしいね」
訝しがる光に、緊張した優人も同意する。
「お父様……」
女性が二人の腕の間で、ポツリと呟く。
光と優人はハッと顔を見合せた。
「「まさか!」」
意識を集中した優人が、気配を探ると、やはり外から強い神力を感じる。
「間違いないね……」
「あぁ、早くお父様を止めなくては……フレイ様が危ない!」
急に駆け出そうとした女性を、優人と光は慌てて止めた。
「外は嵐で危険だ!」
「あなたのお父さんは、きっと優人が説得しますから――」
二人がかりで説得を試みるが、女の人はガンとして首を縦に振らない。
「いいえ、私も行きます。お願いですから、連れて行ってください」
あまり押し問答をしている時間は無い。
優人は渋々頷いた。
「仕方ないね。けど、絶対に光の側を離れないでおくれよ?」
「……分かりました」
優人を警戒したままだったが、女性は強い意思の宿った目で頷く。
優人は少し躊躇いながら、もう一言だけ、ゆっくりと口を開いた。
「――悪いけど、これだけは言っておくよ。生まれ変わった今のフレイは、前世の事を何も覚えていない。もちろん君の事もだ」
一瞬息を呑んだ女性は、悲しみを耐えるように唇を噛み、それでもしっかりと頷いた。
「分かっています。それでも、私がフレイ様を愛している事には、変わりありません。だから私は、なんとしても、お父様を止めたいのです」
きっぱりと言い切った女性に、優人と光は力強く頷き返す。
そして三人は、揺れる船内を壁伝いに移動する。
目指すのは、ついさっきまで優人と光が愛し合っていた展望デッキだ。
しかし展望デッキに続く階段には、優人の『目眩ましのルーン』が書かれ、人の目には見えない。
ならばどうするか――
ここは、優人の記憶を頼りにするしかない。
「えぇ~と……このライトがここにあるから……」
幸い、記憶力がずば抜けている優人は、すぐに階段を見付けた。
「ここだ!」
迷い無く手を伸ばした優人が、ガシッと手摺りを掴んだ瞬間、見えなくなっていた階段が姿を現す。
いや、光と女性の目にも見えるようになったのだ。
「行こう。足元に気を付けるんだよ?」
先頭に立って階段を上る優人は、天井のハッチを開ける。
すると隙間から強風が吹き込み、押し上げ式の扉を抉(コ)じ開けた。
荒れ狂う強風と共に豪雨が降り注ぎ、瞬く間に三人をずぶ濡れにする。
「派手にやってくれるね、まったく」
濡れて額に貼り付く前髪を書き上げ、優人が嵐の展望デッキに這い上がった。
光と女性も後に続く。
ドッドドと激しい雨音に混じって、『ウオオオォォォ!!』と、低い唸り声が床面に響く。
展望デッキを照らしていたランプは、強風に揺らされて壊れたらしく、辺りは一面の闇に呑まれていた。
優人は冷や汗を掻いた。
「これじゃ、何も見えないねぇ……」
どこから攻撃されるかも分からない状況に、さすがの優人も二の足を踏んでしまう。
「私が明かりを出します。上へ行ってください」
一緒に来た女性が、下から優人に申し出る。
少し迷いつつも頷いた優人は、静かに展望デッキへ上がり、バランスを取りながら光を、そして女性を順に引き上げた。
雨と揺れで滑らないように光が女性を支える。
一度深呼吸をした女性が、右手を高く上げた。
「光を……」
女性の囁きに応えるようにして、掲げられた彼女の掌に光が集まっていく。
テニスボール程度の大きさになった光球が、彼女の手を離れて昇り、展望デッキを照らせる高さに止まった。
『おぉ、なんと言う事だ……やはりお前は、ロキ共に捕らわれていたのか』
低い悲しみの声が後方から聞こえ、優人達はハッと振り返った。
女性の作り出した光の端に、山のような人影が佇んでいる。
闇に浮かび上がるような真っ白な髪と髭(ヒゲ)が、グネグネと波打ちながら、頭から胸元を覆い長く伸びていた。
大抵の人は、ギリシャ神話のポセイドンを思い起こすだろう。
それもそのはず――
その男は『海』を意味する名を持つ北欧神話の巨人、ギュメルである。
「お父様! どうか嵐をお静めください!」
女性が叫ぶ。
「やはりあなたは、フレイの見初めた妻、巨人族のゲルダ」
光の呟きに、女性ゲルダは頷いた。
「一週間ほど前、海でお父様にお会いしたんです」
それまでは、前世の事など覚えていなかったらしく、その巨人が当時の父だと気付かなかった。
『あなたは誰ですか?』
生まれ変わった娘が、自分を覚えていなかった事に、ギュメルは酷い衝撃を受けたらしい。
ギュメルは散々嘆いたあげくに、その憤りをフレイに向けた。
『あの男が――あの男が、ワシの可愛い娘を奪ったせいだ。許さん――許さんぞフレイ!』
ギュメルの怒声に合わせて海面が揺れ、竜巻のように水流が巻き上がり、巨人は姿を消してしまった。
初めは何の事か分からなかった彼女は、その日から少しずつ前世の記憶が戻り始め、言いようの無い不安を覚えた。
このままではいけない。
そう思い立った彼女は、すぐ様『フレイ』を探し始めた。
「幸い……取引先に伺った時、たまたま社長室へ入って行くフレイ様を見付けられました」
おそらく、今日行われるはずだった『百合亜の誕生会』の打ち合わせをしに行ったのだろう。
「初めはすぐに警告する積もりだったのですが……言えませんでした」
なんと言って良いか、分からなかったのだ。
それもそうだろう。
例え砂神桐斗が、フレイの生まれ変わりだとしても、前世の記憶を持っているとは限らない。
父に会う以前のゲルダも、覚えてはいなかったのだから……
そしてその懸念どおり、桐斗は前世の事など覚えていない。
「一目見て――恋に落ちました。それが前世からくるものなのかは、分かりませんけど……」
前世など知らず、普通に出会えれば良かった。
そうすれば、不安に思ってしまう事も無く、心から愛しいと言えるのに――
けれどもゲルダは、強い決意を瞳に宿し、父ギュメルを見詰めた。
「例えこの思いが、前世からくるものだとしても……今の私が、彼を愛している気持ちは変わりません」
迷いの無い、はっきりとした言葉だった。
「だからお父様、こんな事はもうやめてください」
『えぇい、黙れ!』
怒りを含んだギュメルの叫びに、ゲルダはハッと息を呑んだ。
彼女の言葉を振り払うように、ギュメルは激しく頭を振り乱す。
『お前はロキに騙されているのだ! フレイに誑(タブラ)かされて、気迷っているだけなのだ!』
「そんな、お父様!」
ゲルダがいくら弁解しようとも、ギュメルは激しく首を振るばかりで、聞く耳を持たない。
『お前を誑かす者など、海の藻屑にしてくれる!』
激昂(ゲッコウ)したギュメルが手を払うと、荒れ狂う波が渦を巻き、生き物のような動きで船に襲いかかって来た。
槍のように尖った渦の先端が、船の船体を貫き、大量の海水を注ぎ込む。
先ほどよりもけたたましい非常警報が、船内に響き渡る。
「しまった!」
焦りの声を上げる優人が歯噛みする内にも、平衡を失った船は激しく揺れ、船体の亀裂を広げて行く。
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