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第5話
ある朝、菊之丞が身支度をしているところに芳次郎が通りがかった。
「旦那さん、髪結いですかい」
「今日は廻ってくる髪結い屋が休みなんだ。髪結い屋に出向かないと…」
「俺ぁ髪結いしてたこともあるんで、やりましょうか」
いつも本業の髪結いにやってもらったことしかないので、一抹の不安を覚えて菊之丞は断わろうとしたが、芳次郎は、返事を待つまでもなくイソイソと準備を始めた。
菊之丞の髪を括っている元結を解き、垂れた髪を櫛で梳く。
「旦那さんの髪は黒々してるね、女なら最高の髪だ」
「褒められた気がしねえな」
違いねえ、と芳次郎は笑う。
いつもの髪結い屋よりも腕がいいのか、菊之丞はすっかり力を抜いていた。
「お前はなんでもできるんだな、兵吉に聞いたぞ」
「はは、色んな職をやってたから身につきましてね。ひとつのことを続けられないんでさあ」
髪を梳いていた櫛を置き、髪付け油を手に取り髪に馴染ませていく。
「旦那さんみたいに一つのことを長く続けられるってのはすげえな」
「…私はただ毎日を過ごしているだけで、何にもしちゃいないよ。同心としても中途半端だ。実績を挙げられているわけでもないし、町人にも疎 まられてるしな」
いつもなら自分の想いなど他人に話さない菊之丞だが、何故か言葉にしてしまい後悔した。
髪を纏 めて元結で結ぶ。元結をハサミで切り、髷を整えると完成だ。
「出来上がりましたぜ」
肩を叩かれ、菊之丞が立ち上がろうとした時肩に置いた手を芳次郎がグッと力を込めた。
「そんなに卑下 しちゃ、なんねえよ。旦那さんは知らねえかもだけど」
「…?」
「無愛想同心だけど、真面目だから安心できるって言ってる人もいる。俺がそう聞いたのは一人二人じゃねえ」
菊之丞は驚いて肩越しに芳次郎を見る。
「もちょい、自分に優しくしてやってくださいよ」
「…」
そんなことを思ったことはなかった。
何より自分のことをそう言ってくれていた町人がいたなんて。
そして出会って少ししか経っていない芳次郎にそんなこと言われるなんて。
菊之丞は何かがすとんと自分のココロから剥がれた様な感覚に襲われた。
まずは力を抜きましょうぜ、と芳次郎が肩を揉み始めた。
「按摩 もやってまして…」
通りで、いい塩梅 の力加減だと、菊之丞は笑う。
痛くもなく優しすぎるでもないちょうどいい力加減だ。
「かなり凝ってますね…力入れすぎなんでしょ、いつも」
「ああ、こんなに気持ち良いなら今度からも頼むよ」
部屋から外を見ると薄曇りの空。
気温もだいぶ下がって来ている。
秋も深まり冬がもう少しでやってくる、そんな空気だ。
どれくらい経った頃か、肩がすっかり軽くなっていた。
「芳次郎、もう良い。軽くなったよ、有難う」
菊之丞がそういうと、手を止めた。
が、なかなか手を下さない。
「芳次郎…?」
「旦那さんの首筋、長いですね」
ツ…、と二本の指で首筋をなぞる。
その指がそのまま耳朶 に触れて、菊之丞が思わず身体を身震いさせた。
「な…」
「ああ、すみません!それだけ首が長いと凝るだろうなあと思ってつい」
パッと手を退けて頭を掻く芳次郎。
サア、時間ですよと言われ、襟を正して立ち上がる。
屋敷を出て菊之丞は首を無意識に撫でた。
それから3日後。
初雪が舞い降りて来てそのまま屋根に、木々に雪が積もった。
「あーサミィ!」
八十助が手を揉みながら茶を入れ、その茶を菊之丞が庭を眺めながら飲んでいた。
「初雪で積もるとは思わなかったな」
「本当に。今年は雪が多いんですかねぇ」
まあ、屋根に積もっても今年は芳次郎が居るから雪かきは楽勝ですがねと言う。
芳次郎を住まわすことに反対していた八十助も、今や親子かと思うほど仲が良くなっていた。
力仕事を率先して手伝い、たまに一緒に夜に呑みに行くこともあるという。
この屋敷が以前より明るく感じるのも、芳次郎のお陰なのだろう。
「さっきは寒いから肩がこるだろうって芳次郎の奴、肩揉んでくれて」
笑いながら言う八十助は今や遠くに住む息子の面影を見ているのか目を潤ませる。
「ああ、旦那さんもやってもらえば良いですよ」
あいつの肩揉みは絶品ですから、と。
あの時、芳次郎が首に触ったのも深い意味はないのだろう。
たまたまなのだろう。
菊之丞は肩に手をやり、頼もうかなと薪割りをしていた芳次郎へ声をかけた。
「こりゃ、重くなりますね。よく凝ってらあ」
菊之丞の肩を揉みながら、芳次郎が驚いたような声を出す。
前揉んで3日しか経っていないのに何をしたらこんなになるんだとブツブツ言っていた。
胡坐 をかいて庭を眺めていると、雪がさらに降って来た。
あたりの音を雪が覆うかのように、静まり返っている。
八十助の言う通り、芳次郎の按摩は絶品だ。
思わず眠くなりそうになる。
「旦那さん、ついでに首も揉んでおきますね」
首の付け根にグッと力を入れてコリをほぐしていく。
芳次郎の冷んやりとした指が気持ち良い。
首も凝るものなんだなあと目を瞑った。
完全に力を抜いて背術を受けていると突然、芳次郎の指が耳朶に触れた。
菊之丞の身体がびくっと揺れた。
(…まただ…!)
驚いて振り返ろうとすると、今度は芳次郎が首筋をゆっくりと
舐めた。
「〜ッ!」
思わず立ち上がり、首を自分の右手で覆う。
菊之丞は硬直したまま、芳次郎を見ると俯いたまま
ニヤリと笑っていたのだ。
それを見て、言葉も出さずに菊之丞は其のまま部屋を出た。
その後。
再々、髪結いや按摩を受けるごとに芳次郎は菊之丞の「首」にちょっかいを出して来た。
ある時は指で触れるだけ。
ある時は舌で舐めるだけ。
たまに耳朶まで触れたり、舐められたりする事もあった。
菊之丞が止めれば、その行為を芳次郎はやめただろう。
だが何故か菊之丞は止めなかった。
其れをいいことに、芳次郎もまた辞めなかった。
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