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第3話

◇◇ 「さん、…兄さんってば」 「んー…何だよ」 「何だよじゃないよ。教えてくれるんじゃなかったの?」 数学、と僕が数式の羅列された教科書を見せれば、兄さんはああ、と思い出したように2、3度頷いた。 「そうだった。ごめん、ごめん」 「忘れてたの?兄さん、酷い」 「あー、悪かったって」 そう言う兄は、全く反省など見られない形だけの謝罪をすると、僕の隣へどかっと腰掛けた。 テーブルに肘をつき、兄さんが僕の方へぐいっと身を乗り出す。肩が触れ合って、不覚にもドキッとしてしまう。 「…で、どれ?」 「あ、えっと……これ、なんだけど」 僕は教科書の一端を指差した。 ううん、と兄さんは顎に親指と人差し指を当てて少し考え込むと、テーブルの上に転がっていた僕のシャーペンを手に取り、さらさらと紙の上に数式を書き始めた。 「これはまず、この式をtと置いて…」 意識を集中させようとして、鼻腔を柔らかな香りが掠める。 これは、香水だろうか。甘いけれど、嫌に鼻につくような甘さではなく、爽やかで心地よい。 高校生なのに香水なんてつけて、もしかして兄さんに、好きな人でも出来たのだろうか。 ちらりと、兄さんを盗み見る。切り整えられた前髪の合間から見えた兄さんの目は、真剣そのものだ。 いつものちゃらちゃらしている兄さんとのギャップも相まって、何故か格好よく見えてしまう。 いけない。折角教えて貰っているというのに、変に意識してしまって、ちっとも頭に入ってこない。 トン、と兄さんがシャーペンの先で紙の端を叩いて、顔を上げる。 「…だから、答えは3e +√2。分かったか?」 「うん、分かった」 「嘘。こっちに集中してないの、バレバレ」 兄さんは溜息をつくと、僕の方へおもむろに手を伸ばし、パチンと額にデコピンする。 「痛…ッ⁉︎」 「バーカ。俺が格好いいからって、見つめてんじゃねえよ」 「み、っ見てなんて…!第一、兄さんなんて全然カッコよくないし!自意識過剰なんじゃないの!」 「……本当に?」 す、っと兄さんの指が、僕の顎を掴んだ。 そのままぐっと引き寄せられて、間近で見つめられて、どくんと心臓が大きく揺れる。 「本当に、俺のこと見てなかった?」 兄さんが、すうっと目を細める。 その目は、決して笑っていなかった。 僕が返答に困っていれば、兄さんはにっと白い歯を見せて、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。 「バーカ」 「あ、いたっ!」 不意打ちで、本日二度目のデコピンを額に喰らう。 呆気にとられる僕を、兄さんは子供のようにあどけない笑みを浮かべ、笑う。 その顔はもう、いつも通りの兄のものだった。 「もういい、兄さんなんて知らないから」 そう言って、無理矢理兄から教科書を取り返し、未だ治らない心臓の鼓動を悟られないように、僕は逃げるように兄の部屋を出た。

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