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第13話

「顔、洗ってくる」  誰にともなく言い置いて、足早にグラウンドを突っ切る。その行く手でツバメが軽やかに宙返りをすると、重力から解き放たれたような飛翔ぶりに羨望の眼差しを向けてしまう。  せせこましい走り方をするやつは伸びない、というのが監督の持論で、科学的根拠に基づいた指導法に定評がある。  名伯楽と謳われる監督が作った練習メニューは矢木の潜在能力を引き出し、かつての矢木は走るたびに自己ベストを更新する勢いだった。  しかしスランプに陥った。スパイクを変えた、フォームを改造した。(そり)状の器具を()いて走って下半身の強化に努めた。コーナリングの精度を高めた。  これ以上何をどうすればスランプから脱け出せるのだろう?   悩めば悩むほど答えは遠ざかっていくようだ。それでもユニフォームが薫風をはらむと、焦りに波立つ心が凪ぐ。 「あー、アイス食いてぇ」  塩辛い唇を舐めながら水飲み場に駆け寄る。  二百メートルを全力疾走したあとに、二百メートルを流して、再び二百メートルを爆走する。タイムを測る前にそれを数セットこなし、乳酸が溜まってふくらはぎがだるい。  蛇口の下に頭を突っ込んで水をかぶる。  焦燥感もまとめて洗い流してしまえ。じゃぶじゃぶと髪をすすいでいるさなか、足音が近づいてきた。ややあって、誰かが隣の蛇口をひねった気配が感じられた。  矢木は目をつぶったまま水を止め、そこでタオルを忘れてきたことに気づいた。  横に何歩かずれる。川で泳いだあとの犬のように、豪快に頭を振って水気を切ると、 「冷た……っ」  しっかり離れたつもりだが、後からきた人物にしぶきがかかったようだ。悪い、とタメ口を叩きながらずぶ濡れのユニフォームを絞り、目をしばたたきながら水飲み場を見やって、首をすぼめる。  どうして、この手の偶然が重なるのだろう。被害を受けたのは、よりによってバツが悪いところを見られてばかりの三枝だ。

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