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第29話
甘酸っぱい思い出を象徴する武内史明は、現在 は三枝の中でどれほどの比重を占めているのか。
それを正確に炙り出すように、視線が鋭さを増すにしたがって、セピア色に染まった情景が瞼の裏に甦る。
時間が巻き戻されて、十代の昔をたゆたう。数学嫌いの三枝は、授業中、抜き打ちで指されることを最も恐れていた。
実際、前に出て問題を解くよう求められた時点でギブアップということが、ままあった。
悄然と黒板に進み出てチョークを手にしたものの、立ち尽くしたきりでいると、それとなくヒントが与えられる。すると、こんがらがった糸がほどけていくようにⅹもyも正しい位置に収まって、答えが導き出されるのが常だった。
丸をもらうとぼうっとなるのは単に苦境を脱したからだ、と最初は思った。それが度重なると否が応でも自覚する。
武内からマン・ツー・マンで指導を受ける、という雰囲気が醸し出されるシチュエーションにときめくのだ──と。
そう、いつしか指されるのを心待ちにするほどに。それが、恋の始まりだった。
ときおりヘッドライトが公園の隅に澱む闇を切り裂く。緊張感をはらんだ沈黙が落ちて数十秒後、鎖が軋み、横木が傾いた。
武内の双眸に映る自分はさもしげな表情を浮かべている、と思う。三枝は睫毛を伏せて、掌をスラックスにすりつけた。
武内が鎖の長さが許す限り身を乗り出した。
開けた場所にいる、いつでも逃げられる。なのに煙草の残り香が強まると、囚われたような錯覚に陥る。
頬に添えられた手が口許へと這い下りていき、小指が口角に達して、さわさわと撫でる。
電流めいたものが背筋を走り抜けた。踵 で地面を漕いで後ろにずれると、鎖ががちゃついて、うろたえるさまを嘲笑っているようだ。
三枝は鎖を半回転させながら元の位置に戻り、武内と向かい合った。
羽虫が外灯にぶつかっていって、焼かれて落ちる。
ブランコのほうでは素早く額をついばまれる、という光景が秘め事の香りを漂わせて繰り広げられた。
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