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第30話
澄んだ水に墨汁を一滴垂らすとマーブル模様を描いて波紋が広がっていくように、甘やかさと苦みが入り混じったもので心をかき乱される。
眼鏡のレンズが汗で曇るのに反して、乾いて仕方がない唇を舐めて湿らせた。
「先生は、その……ゲ……」
「イとは一概に言えない。ただ俺は面食いだ。おまえくらいレア性がある美形は性別を抜きにしてストライクだ、と言っておこう」
婉曲な愛の告白のようでもあり、はぐらかされたようでもある。武内の真意を測りかねているうちに、彼が配車を頼んだタクシーが入口に横づけにされた。
梅雨入り目前の夜空が、ぼってりとした雲にだんだんと覆われていく。タクシーの後部座席に並んで腰かけると、先に降りる武内が自宅の住所を運転手に告げた。
宙ぶらりんの状態でお別れか。三枝はサイドウインドウに頭をあずけて、流れる景色をぼんやりと眺めた。
出世魚の三文字が、不意に脳裡をよぎる。出会ったときには教師と一生徒にすぎなかった関係が、同僚という過程をたどって恋人へと昇格する?
怒濤の展開で現実味にとぼしい。額が熱い、そればかりを思う。触れたものは唇ではなくて炎だったように。
頭が正常に働きだすにつれて怖じ気づく。一般の会社に較べて閉鎖性が高いぶん、教職員の人間関係は濃密だ。ただでさえ職場恋愛は破局したさいのリスクが大きいところに持ってきて、男同士とくる。
ふたりの仲が露見ししだい非難の嵐が吹き荒れて、進退問題に発展しないともかぎらない。だから、つき合うなんて論外だ。
と、手を握られた。抗しがたく握り返した折も折、対向車のヘッドライトに照らし出された横顔に、ある種、デモーニッシュな笑みが刻まれた。
タクシーがこじゃれたマンションの前で停まり、武内が路上に降り立った。
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