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第31話

 寄っていくか、とエントランスに顎をしゃくるのに対して、かぶりを振って。三枝はリアウインドウ越しに、徐々に小さくなっていく武内を振り返った。  胸の奥底でくすぶりつづけていた恋情が報われる、というお膳立てが整ったにもかかわらず、手放しで喜べないのはなぜなのだろう?  躰が常に地上から数センチ浮いているような気がするなかで週末を過ごす。新たに設定した三枝と武内専用、というLINEで彼がちょこちょこメッセージをよこすのに、いちいち返信するそばから後悔する。  今ならまだ後戻りができる、申し出には応じられないと、きっぱりと断ろう。  悶々として週が明けた。朝礼が終わると武内が物問いたげな目を向けてきたが、スルーして三年二組の教室へと急ぐ。  詩や時事評論の別を問わず新しい単元に入るさいは、まず音読して聞かせるのが三枝の授業スタイルだ。ところが太宰治の小編を読み進めているさなか、別段ウケる要素があると思えないのだが、クラス全員が一斉にくすくすと笑いだした。 「ボケてるわぁ。同じ行を二回、読んだ」  最前列の生徒が教卓に向けて教科書を開いてみせ、ここ、と指し示す。  三枝は顔を赤らめた。上の空で教壇に立つなんて教師失格だ。自分を叱り飛ばしたうえで心を込めて音読を再開し、終えたあとで、 「その分野の達人が失敗することを河童の川流れといいます。憶えておいて損はないよ。ちなみに類似の慣用句は……」 〝弘法も筆の誤り〟と黒板に書いた。 「さて、太宰治は昭和を代表する小説家のひとりだということは、もちろん知っているね。著作は粒ぞろいでありながら人格破綻者っぽい一面があって、自殺癖があるわ、女たらしだわ、モテて羨ましいわ……というのは冗談で。現代の感覚ではピンと来ない表現があると思うので解説していきます」  作品の時代背景を理解するのにうってつけのエピソードをいくつか披露して、生徒の興味を惹く。  頭の隅では、こんなことを考えていた。武内とつき合うということは、用心深さを求められるということ。  鉄則だ。枷がある、そんな不自由な恋愛に喜びを見いだせるほど、武内のことがまだ好きなのか?

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