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第32話

 板書を書き写す時間を設けて、生徒たちがノートにペンを走らせているあいだ、教員向けの解説書に目を通す。  今年の受験生から実施に踏み切る大学入学共通テストにおける改革案の目玉のひとつ、記述式の問題を国語の試験に盛り込む件について実施は見送られた。  だが、センター試験との違いを打ち出すために、記述式のそれに類する問題が恐らく増えるだろう。  この単元の総まとめの小テストでも、その手の設問をいくつか加えよう。  数をこなして〝考える癖〟をつけさせてあげないと、本番でまごつくことになって可哀想だ。  もっとも幾通りもの解釈が成り立つ表現について問うて、正解、不正解と点数をつけることじたいナンセンスきわまりない。それが三枝の持論だ。  〇〇命だった人間が、突然飽きてしまうことはザラにある。  人の心は移ろいやすい。武内にしても心変わりしないとも限らないし、不安材料だらけの状態で、とてもじゃないけれどつき合うのは無理だ。  ふと視線を感じた。それは教室の後方からそそがれるもので、矢木が尾行の下手な探偵さながら教科書で顔を隠した。  たとえば、あの闊達な生徒は、かねてから「いいな」と思っていた相手から告白されたら二つ返事でOKするのだろうか。  それとも、うれしいと思う以前に戸惑ってしまうのだろうか。  その矢木が教科書をずらして、口をぱくぱくさせた。案じ顔をヒントに、大丈夫、と訊いているのだと唇の動きを読む。授業冒頭にミスを犯した件を心配してくれたに違いない。  優しいな、と思う。了解した印に、三枝は微笑みかけた。矢木から放たれるオーラには温かみがあって、週末来、波立って静まらなかった心が凪ぐ。  初恋が七年越しに実る形なのだから、難しく考えずに、棚ぼただ、ラッキーでいいじゃないか。そうだ、石橋を叩きすぎたあげく破壊する前に渡ってしまおう。 「先日の話、謹んでお受けします」  職員室の片隅で囁きかけると、 「業務連絡みたいだな。色気の欠けらもないのが三枝……いや、三枝先生らしい」  武内が苦笑いを浮かべたその日を境に、この地方の上空に梅雨前線が停滞した。

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