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第57話
矢木は利き足に軽く体重を乗せて、深く静かに呼吸をした。
脈拍は正常、靴紐の結びぐあいは完璧で、ゼッケンは母親がしっかり縫いつけてくれた。
四肢がわななくが、それはビビっているせいじゃない、武者震いだ。
ありとあらゆる筋肉と腱が、爆発的なエネルギーを生み出す準備が整った。天翔 けるペガサスさながらのダイナミックな走りで、表彰台の真ん中に必ず立ってみせる。
神経が極限まで研ぎ澄まされて、引き金を引きはじめる微かな音を耳が捉えた。直後、号砲が鳴り渡った。
フライングと判定されるか、されないかの際どいタイミングで、力強くトラックを蹴る。
我ながら惚れ惚れするようなロケットスタートを切った。ぐんぐん加速して、一番手で最初のコーナーに突入する。
上体を絶妙の角度に傾けて、遠心力を味方につけて、トップスピードに乗ったまま回り終えた。余勢を駆って直線をひた走りに走る。
レース序盤で圧倒的なまでにリードを広げておけば、貯金が終盤でものを言う。
百メートル走のゴールを示す横のラインが、あっという間に後方へと遠ざかる。
本当は陸上競技の華、百メートル走を志望していた。中距離走のポテンシャルが高い、と顧問兼監督から転向を勧められて、八百に取り組み始めた当初は正直、クサっていた。
だが結果を出さないうちからやめるのは性に合わない。
来る日も来る日もひたすら走りつづけて、履きつぶしたスパイクの数が俺の誇りだ。
百十秒台の真剣勝負。二年数ヶ月、練習に励んで培ったすべてを燃やし尽くして、悲願を達成してみせる。
斬り込み隊長のように、先頭に立ったままバックストレッチを駆け抜ける。
耳許で風が唸り、もっと早く、もっと早く、と叱咤してくれる。もしかすると、とスタンドに横目を流した。
さっきは運悪く三枝の姿を見落としただけで、今ごろはあの人も応援してくれているかもしれない。
矢木、と呼び捨てにするくらい俺の激走ぶりに興奮しているかもしれない。
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