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第62話

「ゴール目前でヘマこいて、あちゃーだったっしょ」 「ヘマをこくどころか見ごたえのあるレースだった。きみはベストを尽くした」    と、力説するだけでは飽き足らず、ボディバッグに突っ込んであったメガホンを振り立てる。  それは硬いもの……例えば観覧席の背もたれでも叩きまくったのか、全体的にへこんでいた。  ──矢木くん、その調子だイケる。ラスト五十、行け行けぇ!  三枝はメガホンを振り回しながら絶叫していたのかもしれない。日ごろ物静かなぶん、ギャップはすさまじいものがあっただろう。  熱狂ぶりを想像すると、台風一過の青空が広がるように、鬱々としたものが薄らいでいく。矢木は三枝へと向き直り、居住まいを正したうえでお辞儀をした。 「本日はご足労をかけて、あざっした」 「こちらこそ、お招きいただき光栄です」  三枝までかしこまると、さしずめお見合いの席だ。先を争うように頭を下げ合い、米()きバッタそのものの応酬がツボにはまって、ふたり同時に噴き出した。  ただし矢木の場合は、おかしな現象に悩まされることになった。  眼鏡のレンズを透かして、幾筋かの皺が目尻におっとりと刻まれるさまを目の当たりにすると、酸素が薄まったような胸苦しさに襲われる。  ランニングシャツを鷲摑みに胸を押さえた。頭のてっぺんから爪先まで脈打って、自分というものが一旦無数のピースに解体されてから、別の要素を加えられたうえで再構築されていくようだ。  レース中に心臓に負荷がかかったツケが、今ごろになって回ってくるのは理屈に合わない。それ以前に、むしろ胸がきゅんとする……。  と、ぐるぐるしている間に三枝が監督に許可を求めて、矢木を自動販売機へといざなった。スリットに硬貨を投入しながら振り向く。 「残念賞にごちそうするよ、どれにする」  無言でメロンソーダのボタンを押すと、 「わりと甘党なんだね」

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