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第83話
別に、と素っ気なく斬り捨てられた。
唇が触れた箇所をティッシュで丁寧に拭いてから水筒を返すと、ねだりがましい振る舞いが今さらながら恥ずかしい。
眼鏡を外してレンズを磨いた。たとえば飲まず食わずで山中をさまよっていた場合、矢木以外の生徒に対しても同じように甘えるだろうか。
いや、肉体の欲求に逆らって結局、水場を探し当てるまで辛抱するはず。
三枝は、なおもレンズを磨いた。事、矢木に限っては時として教師の本分から逸脱した行為に走ってしまうのは、なぜ?
それに、とんでもない秘密を抱えたように後ろめたい。この一件は、武内には絶対内証だ。
かたや矢木は水筒を握りしめたきり、カチンカチンに固まった。
──間接キス……。
うわ言めいた呟きは、次の停留所を告げるアナウンスにかき消された。口がへの字にひん曲がり、ただし、その渋面は、今にもふにゃふにゃと崩壊する気配を漂わせていた。
バスが減速しながら路肩に寄りはじめた。ここで降りる三枝は席を立った。
野暮用があって終点まで乗っていくという矢木と、また学校で、と別れたあとに車内でこんな光景が繰り広げられたとは知る由もない。
矢木は最後列の席に急いで移り、よろけがちに遠ざかっていく後ろ姿をリアウインドウ越しに見つめつづける。
そして、それは表面張力の作用であふれるのを免れていたコップの水に、ひとしずく加えたに等しい。これにあやかりたい、と言いたげに水筒に頬ずりをする。
甘くて苦いため息をこぼしながら。
炎熱をものともしないで、草むらで虫がすだきはじめた晩夏の出来事だった。
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