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第87話

「ピンチヒッターを頼まれた。出席番号三十二番から五人、前に出て課題の五問を解く」  矢木も該当し、騙し討ちに遭った思いで腰をあげた。  日付と出席番号の相関性に基づいて、今日は当てられないと高をくくっていた。しかも割り振られた設問は、考えに考えてもどうしても解けなかったそれだ。  ノートと首っ引きで数式を展開していき、昨夜つまずいた箇所で再び迷宮に入り込んだ。  他の四人がさくさく解き終えたのにひきかえ、さしずめチョークを持ったお地蔵さまと化すありさまで、体のいいさらし者だ。  サンダル履きで背後を行ったり来たりする足音が、焦りに拍車をかける。嫌みったらしいため息が、矢木にだけ聞こえる音量で鼓膜を震わせると、自然と指に力が入ってチョークが折れた。  武内は、矢木をその場に立たせておいて指示棒で黒板をひと叩きした。 「はい、注目。この手の図形問題は出題率が高くて配点も大きい。攻略するコツは、とにかく数をこなして頭に叩き込むこと」  新しいチョークと、ささやかなヒントが与えられた。矢木は問題を見つめなおした。  視点を変えてアプローチすると数字も記号も生き生きと動きだして、美しいタペストリーが織りあげられていくようだ。 「よし、正解。矢木の場合は食わず嫌いの部類で、基本はちゃんと理解している」  ぺこりと頭を下げてから席に戻った。武内が優秀な教師であることは認める。ピンチヒッターといわず、入試の直前まで授業を受け持ってほしいほどだ。  だが目のたんこぶ以外の何ものでもない。仲よしぶりをアピールしているように、昼休みにまで三枝をつれ歩くのは図々しくないか?   敵愾心を燃やす理由など、それで十分だ。  爪の間に入り込んだチョークの粉を定規の角でほじくり出していると、急に寒気がした。  反射的にあたりを見回すと、武内が睨み据えてきた名残を目許に留めながら、すっと黒板に向き直るところだった。

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