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第88話

 無言の恫喝というニュアンスが感じられて、こっそり中指を突き立てて返す。  ともあれ朝練があったころより一本早いバスで登校すると、三枝と行き合う確率が格段に高まる。  ときめきポイントが加算されるとともに、武内をだしぬいてやった気分を味わえる、というお得感があった。  矢木よりひとつ手前のバス停から乗車した三枝はたいがい文庫本を読みふけっていて、貴重な読書タイムを邪魔するのは申し訳ないから、目礼を交わす程度で我慢する。  それでも並んで吊り革に摑まり、静やかな息づかいに耳を澄ませるのは至福のひとときだ。  寝坊したせいでいつものバスに乗り遅れた日は、この世の終わりのようにヘコむ。一事が万事その調子で、心の中の風船がしぼんだり膨らんだり忙しい。  とはいえ受験生の哀しさで、恋にうつつを抜かしてばかりもいられない。  予備校に通って成績の底上げを図り、その合間に〝白雪姫〟の稽古に参加して、継母の暗殺を企てるという設定の姫の役作りに励む。三枝に笑ってもらうためならば、女装だろうがバンジージャンプだろうが、お安い御用だ。  母親からおつかいを申しつかったときには、土砂降りの日でも必ず遠回りをしてスーパーマーケットに行く。  そう、レジデンス横峯の前を通るルートだ。幸運の女神が微笑んでくれたら、  ──あれ、矢木くんじゃないか……。  ──偶然っすね。先生、このマンションに住んでるんすか……。  ──他の生徒には内証だよ……そうだ、あがってお茶でも飲んでいく?  といった、妄想劇場が現実のものにならないとも限らない。  そんなに都合よく事が運ぶはずもないなか、日一日と空の色が透明度を増していく。  曼殊沙華が道ばたを彩り、そして文化祭当日、アクシデントが発生した。 「……あの、タコ! うろちょろできないように椅子に縛りつけとくんだった」 〝白雪姫〟の脚本を担当した宮本という女子が、ぎりぎりと台本をねじ曲げた。クラス中の女子が口々に宮本を慰め、矢木を含めた男子は一様に頭を抱える。

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