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第97話

 少なくとも矢木には、そう見えた。俺に断りもなく三枝を引っぱり出すとは許しがたい──と苛立っているような気がした。 「『姫、ゴキブリ並に生命力の強い白雪姫。いいですか、チュッとしたら一、二の三で復活してくださいね』」  三枝が片膝立ちになって、なかば覆いかぶさってきた。眼鏡を外し、おまけにうっすらとメイクをほどこされた顔がアップで迫る。  片思い中の身にとって、この構図はミサイルクラスの破壊力がある。矢木は、しゃちこばった。  一方で、スマートフォンの砲列が敷かれて決定的瞬間を捉えにかかると欲が出る。  ベスト・オブ画像および動画を俺のスマホに転送してもらって永久保存版にしよう──と。  それは片恋というデコボコ道を歩んでいくうえでの心のよりどころになるはずだから。などと乙女モードが発動するそばから(よこしま)な考えが頭をもたげる。  俗に役得という。どさくさにまぎれて本当にキスをしても、ウケを狙ってやった、と開き直ってしまえば無罪放免となるかもしれないぞ……?  三枝の逆鱗に触れたら元も子もないリスクが大きい賭けだ、やっちゃえ、やっちゃえ。  天使と悪魔が、交互に囁きかけてくるようだ。  逡巡している間にも朱唇が射程圏に入る。ロケットスタートを切る要領で行動に移せば唇を盗むくらいチョロいはずなのに、吐息に鼻の頭をくすぐられても、指一本動かせないありさまだった。  唇が触れ合わさった。角度の関係で客席からはそう見えたせつな、黄色い悲鳴と拍手と口笛とシャッター音が教室をどよもした。  矢木はドレスの裾をからげて跳ね起きた。そして飛びのく。  脚本では王子に抱きつき、紙吹雪が舞うなかを、がっぷり四つに組んで下手(しもて)へと捌ける。  過去三回の上演ではリハーサル通りに躰が動いた。にもかかわらず、ヒューズが飛んだように度忘れしてしまい立ち尽くす。

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