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第114話
次回、と呟くと目縁が赤らみ、せかせかと眼鏡を押しあげた。
塀を回り込んで駐輪場へと向かう自転車通学組は、ながら運転が多い。声を嗄 らして注意を与えているところに、バス通学組が坂をのぼりつめた。
三枝はにこやかに「おはよう」と声をかけようとして、口ごもった。没個性的な集団の中にあって、矢木ひとりがスポットライトを浴びているようにまばゆく見える。
武内との関係はあくまで私的なもので、矢木に対して後ろめたさを感じる筋合いはないのに、後ろめたい。
持ち場にたたずみながら、矢木がここを通りかかる瞬間を恐れる自分と、待ち望む自分がせめぎ合う。
IDカードが閃いた。肩書きにある通り自分は教師で、矢木は生徒総数七百四十余名分の一にすぎない。
どの生徒にも平等に接する、という基本に忠実であれ。
そう自分を戒めても、理屈もへったくれもなしにそわつく。矢木が白い歯をこぼすにつれて、ときめきぶりを表す指数であるかのように鼓動が速まる。
愚かしいことを、と三枝は自嘲気味に嗤った。ことさら凛と背筋を伸ばすと、矢木を呼び止めた。
「おはよう。ネクタイは忘れてきたのかな」
「はようっす、持ってまぁす」
矢木が不自然に膨らんでいるブレザーのポケットを叩いてみせた。そのせつな、人波に押される形で寄りかかってきた。
些細な出来事だ。胸と胸が合わさったといっても、そよ風に撫でられた程度のささやかな接触だ。
ところが三枝はその日、気がつくと胸に手をあてがっていた。
痕跡と呼ぶには、あえかなものを追い求めてそうしているような──。
では痕跡とは、なんの痕跡だ? 煎じ詰めると、パンドラの箱を開けたような結論が導き出される予感がする。
些末なことにこだわっているより、目下の急務は赤点を取った受験組の救済措置を図ること。
授業の冒頭に返却する答案用紙の束を抱えて、エンジェルダストが舞う渡り廊下を大股で歩いた。
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