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第146話

 三枝自身は元の鞘に収まる気は、さらさらないふうだった。それどころか武内のことを明らかに疎ましがっていた。  ならば、好きな人のピンチに知らん顔では男がすたる。恋敵……いや、自分と三枝にとって共通の敵を撃退する。  勝算も秘策もないし、いわば出たとこ勝負だが、根性を見せてやる。  ともあれ予想は的中した。指がかじかみ、耳たぶがちぎれそうになったころ、長身の人影が曲がり角の向こう側から現れた。  来た! 矢木は膝を曲げ伸ばしすると、マンションの一階──シャッターが下りた薬局の前に躍り出た。  武者震いがする。八百メートル走のスタートラインに立ったときのように。  雨あがりのアスファルトは、油膜が虹色にぎらつく。人影が近づいてくるにしたがって、革靴もトカゲの鱗のようにぬめぬめと光る。  矢木は細く長い息を吐いた。グラウンドコートのポケットの中でスマートフォンを操作したあとで、両腕を水平に広げた。  ひったくりに出くわした。武内はそうと早合点したのか、ブリーフケースを胸にかき抱いた。弱みを見せまいと肩をそびやかし、矢木の姿を認めると、驚きをあらわに目をしばたたいた。  一拍おいて渋面をこしらえると、 「夜遊びする暇があるのか。公式を憶える、過去問を解く。やることはいくらでもあるはずだ」  帰れよがしに手をひと振りした。  こんな卑劣漢は、ここから一歩も通さない。矢木は、バリケードを築くように武内の正面に立ちはだかって鋭く言い放った。 「夜遊びをする、は俺の科白だ。嫁が妊娠中らしいじゃないっすか。家に帰ってオムツの替え方でも練習しとけよって感じっすね」  一旦口をつぐみ、無邪気っぽく口調をがらりと変えて、 「迷惑がってる相手に付きまとってプレッシャーをかけるやつのことを、ストーカーって言いませんか? 性懲りもなくうろついて、武内先生は典型っすね。生徒に慕われてる武内先生の正体がストーカーだなんて、PTAとか校長とかにバレたら大問題だろうなあ」 〝武内先生〟を強調して言葉を継いだ。

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