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第158話

「本番直前に出歩いて、風邪でもひいたら取り返しがつかないよ? 勉強のことで質問があるなら、事務室のほうに電話をくれれば折り返したのに」 「頭が飽和状態で気分転換しにきたっていうか、愚痴とか聞いてもらってもいいっすか」 「じゃあ……進路指導室に行こうか。あそこなら邪魔が入らない」  邪魔が入らないということは、取りも直さずふたりきりになるということだ。  自縄自縛、と独りごちると心臓がことことと走りだし、うっかり進路指導室を通りすぎてしまうところだった。  予想では今度矢木と会うのは卒業式当日で、その日にしても在校生と教職員が両側に並ぶ花道を通るさいに(はなむけ)の言葉を贈るのが関の山だろうと、やるせなさをない交ぜに、ほろ苦い想いを嚙みしめていた。  だしぬけに会いに来られたおかげで、心をかき乱されて困る。  冬晴れの空は玻璃(はり)のように青々しい。陽光がきららかに床を掃き、各大学の便覧がキャビネットにずらりと並ぶ部屋で、机を挟んで向かい合った。  三枝はワイシャツの胸ポケットに挿してあるボールペンを抜き取り、ラバーグリップを爪でこそげた。  試験が間近に迫るにつれてナーバスになり、現実逃避めいた行動をとってしまう気持ちは経験上、よくわかる。ならば現代文の教師の本領を発揮して、古今の名作から引用した文章を織り交ぜて激励してあげよう。  ところが焦れば焦るほど舌がもつれ、語彙がとぼしくなるありさまだ。  矢木も矢木で愚痴るとは言ってみたものの、ダウンジャケットからはみ出した羽毛を()り合わせるばかりだ。  あの、と口を開くたびにハモること数回。話しはじめる順番を譲り合ったすえに、矢木が身を乗り出した。  ボールペンをひっきりなしに右から左へと持ち替えたり、机の上に複雑な模様を描くように動く手。  その手を掬い取り、捧げ持つと、 「俺は受かる、受かる、受かる、受かる……」  目をつぶって呪文を唱えるように繰り返す。

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