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第161話

「よし、充電完了。あざっした」  矢木が、やけに威勢よく立ちあがった。 「あっ、ああ……気をつけて、寄り道しないで帰るんだよ」  イエッサー、と軍隊式に上履きのかかとを打ち合わせて、くるりと背中を向ける。おどけた仕種と裏腹に、不安が渦巻く胸のうちが猫背になりがちな後ろ姿に表れていた。  引き戸に手がかかった瞬間、(たが)が外れた。三枝は椅子を蹴倒しながら戸口へと駆け寄り、ダウンジャケットの袖を摑んだ。  びくん! と肩が跳ねた。矢木はひと呼吸、さらに一拍おいてから首をねじ曲げた。そして物問いたげに唇を舐めて湿らす。  にわかに空気が張りつめた。リノリウムのあるかなきかの継ぎ目がクレバスさながらの深い割れ目に変じて、自分と矢木を隔てるように見えた。  タブーだ、節度を守れ。狂ったようにわめきたてる理性の声に背いて、三枝はあどけなさの残る顔に指先でそっと触れた。  髭はまだ、まばらに生えている程度のすべらかな頬。闊達な性格そのままの澄んだ瞳、意志の強さを表す引きしまった口許。  ひたむきで侠気(おとこぎ)にあふれていて、矢木を嫌う要素を捜すほうが難しい。惹かれて何が悪い、と開き直ってしまいたくなる。  ストッパーが弾け飛んで、熱い眼差しを向けてしまう。  先生、と喉仏がごくりと上下し、三枝は本能に従って爪先立ちになった。  キスを乞う唇と、キスを欲する唇が、磁力が働いているように近づき合っていく。  と、ストラップがボタンに引っかかった拍子に、IDカードがふわりと浮きあがった。〝国語科・三枝智也教諭〟が目を射る、それ。  魔法は、それにかかったとき以上の早さで解けた。  教え子を相手に惹かれるだの、なんだのと浅ましい。三枝は苦笑交じりに引き戸を開け放った。 「矢木くん、きみはできる子だ。試験前夜はぐっすり眠って、朝食をしっかり食べて、時間に余裕を持って出かけること」  怒気をふくんだ顔が、一転して泣き笑いにゆがんだ。

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