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第162話

「これがあれば試験なんか屁、っす」  矢木は襟元をまさぐり、紐をたぐり寄せて、学業成就の御守りを引っぱり出した。 「じゃあ……帰ります」 「昇降口まで送る」 「からかってるのか!」  だん! と床が踏み鳴らされた。期待を裏切られた恨めしさが凝縮されているように、残響が長々と尾を引いた。 「……ひとりでぶらぶらしたい気分なんで、さよなら」  そう言い捨てるなり、取りつく島がない後ろ姿が足早に遠ざかっていく。  三枝は、うつむきがちに進路指導室を後にした。からかっているのか、と詰られても弁解の余地がない。  一刹那、本気で矢木にくちづけたい衝動に駆られて、誘惑に抗いきれなかったくせに、土壇場にきて掌を(かえ)してしまったのだから。  今すぐ矢木を追いかけていって謝ろうか。べつに気にしてないっすよ、わっはっは、と言ってもらえるとでも?   だからといって少し時間をおいて、矢木のスマートフォンに宛てて謝罪のメールを送ろうにも、肝心のアドレスを知らない。  その一点に限っても制約の多い関係で、新しい世界へと羽ばたいていく矢木の足枷になる真似はするまい。  矢木にとっても、七つも年上の教師に想いを寄せたのは一時の気の迷いにすぎない、と黒歴史として葬るほうが、長い目で見れば幸せに決まっている。  授業を受け持つクラスがインフルエンザによる学級閉鎖となった関係で、次の時間もたまたま空いていた。進路指導室の横手の階段を下りたのちに右に曲がるのが職員室への最短のルートだが、わざと遠回りをする。  渡り廊下を通って、音楽室や美術室がフロアを占める校舎へと移動した。そして、グラウンド寄りの階段に向かう。  目的は踊り場だ。より正確に言えば壁一面の窓だ。 〝特等席〟と密かに名づけたここは、陸上部の練習風景をこっそり眺めるのにもってこいの場所なのだ。

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