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第163話

 あれは春の陽がうらうらと照る放課後のこと。疾風(はやて)のような走りっぷりと、すこぶるつきに美しいフォームに魅了された。  トラックの王者といった風格を漂わす、あの生徒は誰だろう?   逆光に沈んだ顔に目を凝らし、矢木大雅だと見分けがついたせつな、なぜだか心臓を鷲摑みにされたような胸苦しさに襲われた。  それは、甘やかさが根底に流れる摩訶不思議な感覚としか表現のしようがないもの。  何年何組の生徒で偏差値はいくつ、という基本のデータに加えて、くっきりとした輪郭線を持つようになって以来、矢木はいつだって〝なんとなく気になる生徒〟だった。  藤棚に(いだ)かれているような水飲み場へと視線を移す。薫風が吹き渡るなかで矢木と初めて差し向かいで、且つまともに話したのが、あそこだ。  溌溂としたユニフォーム姿がまばゆくて、生命力にあふれたさまに圧倒されて、機智に富んだ受け答えができなかった憶えがある。  青々と葉を繁らせて、匂やかに花房を垂らしていた藤の木は、現在(いま)は枯れ木と見まがうばかりにみすぼらしい。  それでも季節が巡ってくれば芽吹く藤の木と同様、武内との一件で九割がた干からびてしまった心も、いずれ潤いを取り戻すのだろうか。 「クロッカス、水仙、チューリップ、ムスカリ、フリージア……」  顧問を務める園芸部の部員を手伝って、秋に植えた球根は数百を数える。ちっぽけな塊にすぎないあれらも、花芽を蓄えながら春の訪れを待つ。  きっと、と三枝は呟いた。おれも誰かのために恋という名の花を咲かせるときが、いつの日かやってくる。  いや、などとぼかすのは欺瞞だ。せき止めることじたい無理だったように、ともすると堰を切って迸る思いがある。  だが社会通念上、それ以前に矢木の将来を考えると、心の赴くまま行動するのは決して許されることではない。  頭をひと振りして矢木の幻影を払いのけ、窓から顔を背けた。階段を駆け下りているさなか、クラクションがけたたましく鳴り渡り、それにかぶさって甲高い音が轟いた。

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