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第167話

 たちまち矢木はしゅんとなったものの、肩をすぼめても取りたてて痛がるそぶりを見せないあたり、無傷だという証拠だ。  よかった、と三枝はうわ言のように何度も呟いた。へたへたと座り込むと、矢木がその足下を指さして素っ頓狂な声を張りあげた。 「先生、裸足だ」  上履き代わりのサンダルが駆けつける途中で脱げてしまっていたことに、今の今までまったく気づかなかった。とりもなおさず、それほど気が動転していた。  三枝は親指がにょっきりと顔を出した靴下を脱いで丸めた。口許が微苦笑にほころぶ。  仔猫の命も大事だろうが、自分の命を粗末にしては本末転倒だと、お説教するのが正しい場面だ。  だが、無理だ。教師の仮面は、すでに剝がれ落ちた。  先ほどの光景が、コマ送りでありありと目に浮かぶ。まかり間違えば矢木はトラックに()ねられていた。  九死に一生を得たなら、何十年後かにはブラック系の思い出話だ。しかし最悪の結末を迎えていた場合は……。  蠟より白い顔が恐怖にゆがむ。三枝は矢木の元へとにじり寄って、制服のスラックスを渾身の力で摑んだ。  そう、答えはいたって単純だ。職業的倫理観やタブーを破ることへの(おそ)れ。そんなものとは較べ物にならないほど大切なものがある。  自分の心に嘘をつくのは限界だ。理屈もへったくれもなしに矢木が愛おしい。未成年の教え子をたぶらかした淫行教師という烙印を押されても、むしろ本望だ。  矢木のことが、ただただ純粋に愛おしい。  熱っぽい視線を矢木にそそぎ、それは心の琴線に触れる。 「せん、せい……?」  喉仏が大きく動くにつれて、ぎゅうっと抱き寄せられた仔猫が唸った。  そして手荒な扱いに抗議するように、ダウンジャケットを切り裂きながらジャンプすると、宙返りいちばん着地して、民家の庭にまっしぐらに逃げ込んだ。

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