163 / 168

第170話

 なじみ深い前奏に郷愁をそそられるものがあるようで、シルバー世代の来賓が表情をやわらげる。歌声が高まるにつれて、晴れやかさと物悲しさがない交ぜになったものに、体育館じゅうが包まれていく。  教えの庭にも──と三枝はごくごく小声で口ずさんだ。  三年一組の生徒が三枝の側に並んでいる関係で、二組に在籍する矢木は横顔が見え隠れする程度だ。それでも、すらりとした体形も相まって、矢木はスポットライトを浴びているように際立って見える。  いや、たとえ彼が極端に小柄で、都会の雑踏にたたずんでいてさえ、視線が吸い寄せられるに違いない。  垣間見える口をぱくぱくさせているあたり、正統派中の正統派のこの曲を情感たっぷりに歌いあげているのだろう。  いざ、さらば──と。  矢木が巣立ちの時を迎えたという実感が湧くと、瞼が熱を帯びる。レンズの端から指を差し入れて、目頭を押さえた。  今日で見納めとなる(みず)やかな制服姿を網膜に焼きつけておきたいのに、ありとあらゆるものが、おぼろに霞む。   体育館の入口付近は、別れを惜しむ卒業生たちでごった返していた。矢木は皺くちゃになったブレザーをはためかせながら校舎に駆け込んだ。  矢木ちゃん先輩を胴上げで送る、と妙にテンションが高い陸上部の後輩たちを振り切るのに手間取り、焦る。  廊下を走っている最中に、ようやく土足のままだと気づいて、むしり取るようにスニーカーを脱ぐ一方で三年二組の教室へと急ぐ。  そこで落ち合う約束などしていない。だが三枝は必ず待っていてくれる、という確信があった。  教室に飛び込むと同時に笑みがこぼれた。思った通り、ほっそりした人影が窓に顔を向けて教卓に寄りかかっていた。  後ろ手に引き戸を閉めた。  一拍おいて三枝が夢から醒めたように、ゆるゆると(こうべ)をめぐらせた。

ともだちにシェアしよう!