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第172話

「必死こいて抵抗したんだけど、後輩連中が寄ってたかって俺を押さえつけて、第二ボタンまでむしり取っていった!」  ごめんなさい、すみません、と腰を直角に折るたびにスラックスがずり落ちる。 「記念品だ、お宝だってほざいて、ベルトもネクタイも()って。あいつら鬼っすよ、鬼」 「きみが面倒見のいい先輩で、とても慕われている証拠だよ」  と、はんなりと微笑(わら)うのにともなって優しい皺が目尻にきざまれる。この表情が大好きだ。矢木はうっとりと見惚れながら、きゅんきゅんする胸を押さえた。  武内に裏切られて疑い深くなるどころか、透明感にあふれた人柄は微塵も損なわれていない。  湖面を吹きわたる涼風(すずかぜ)というイメージが浮かぶ。と、躰からよぶんな力が抜ける。  公式の競技会に限らず、部内の記録測定会でも、八百メートル走のスタートラインに立つと心が凪ぐのが常だった。  現在(いま)もそうだ。軽やかな身のこなしで教壇にあがり、三枝と向かい合う。教卓の上で組まれた手を押し戴くようにしてほどき、小さな銀色のものを掌の上に載せた。 「これは死守しました。もらってください」  太陽を図案化した意匠のそれは、校章だ。入学式からこっち、うれし涙を流した日も、くやし涙がこぼれた日も、ブレザーの襟元で輝きつづけた品だ。 「こういう唯一無二のものはご両親にあげるべきだ、と諭すのが筋なんだろうけど……」  すんなりした指が端から順番に折り曲げられていき、かけがえのない宝物を贈られたように校章をくるむ。 「ありがとう、一生大切にする」  矢木は真一文字に口を結んで、ただうなずいた。ドサクサまぎれに校章まで奪われそうになったとき、匍匐前進の要領で後輩たちの足下をくぐり抜けたあとは、ひたすらダッシュで追撃をかわした甲斐があった。

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