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 諸外国との国交を一切断ち、小さいながらも長きに渡り独立国家として繁栄し、小さな街が一つの国家として成り立つジラニー王国。その歴史は古く、人間と獣が共に共存していた時代からと聞く。  狼と人間が交わり、そして子を成す……。そうやって生物学的にも希少な遺伝子を継承し続けて来た。  しかし、それは国外にもたらされることはなく、学会にも報告されていない。情報過多とも言えるこの時代に国外に漏れることがなかったのは、国民の国外移住を禁止し、徹底的に外部からの接触を断ってきた結果だ。国境付近には電波を遮断する特殊な壁が設けられ、外部からの侵入者は一人残らず処刑される。もちろん、国内から外部に出ようとする者も同様で、警備兵に容赦なく首を刎ねられる。  壁はその時の返り血で赤く染まり、周囲には多くの死体と死臭が漂っている。だが、人口三万人ほどが暮らす国内は多くの緑と美しい湖に囲まれた、平穏で争い事などない世界一治安のよい国といえよう。  しかし、水面下では暴君と噂される国王、シルビオ・サラサールによって多くの虐殺が行われていた。  彼がΩ種を嫌う理由――それは実の母親である元王妃、エマ・サラサールが彼を狂わせた。  庶民上がりのエマは当時の王であったガスパル・サラサールを誘惑し、既成事実を作るがごとく体を重ねてシルビオを身籠った。それからのエマは王家の金を湯水のように使い、一時は財政難に陥りそうになったところを、家臣たちの努力によって持ち直したという逸話が残っている。王であるガスパルはまるで彼女に操られでもしているかのように尻に敷かれ、彼女の言いなりになっていた。そして、幼い頃から母親に虐待されてきたシルビオが物心ついた頃、城内の噂を耳にした彼はエマを殺した。実の母親に手を掛けるのは本来重罪であるが、シルビオは『王妃に憑りついた悪魔を葬った』と証言し罪は免れた。  実の母を殺した数年後、エマのせいで心労を重ねた父王ガスパルが崩御し、この国が彼のモノになったのはシルビオが十八歳の時だった。  幼い頃から従者としてシルビオと行動を共にしていた三つ年上のヘラルドを側近に迎え、傾きかけた国は彼らの尽力によって穏やかな国へと戻った。  二十六歳――この国では結婚適齢期をとうに過ぎている。それでも、下心しかない煩わしいΩ種の妻を娶ることよりも毎月のように発情期に悩まされ続けていた方がいいと選択したシルビオは、その苛立ちから城内に住まうΩ種を全員処刑した。  Ω種が発情期を迎えると、有能なα種を求めて独特の香りを放つフェロモンを放出する。その香りは甘く花のようにも思えるが、それを嗅いだα種は強烈な劣情に駆られ、自我を失い交尾を行う。それがα種の発情期と重なった時の受精率は一〇〇%と言われ、フェロモンに当てられた貴族α種が見知らぬ庶民と関係を持ってしまうという事案が度々報告されていた。しかし、生まれてくる者は優秀なα種がほとんどで、一概に交尾を禁止することが出来ずにいた。  そんな行為をシルビオは許せなかった。自身の母親のように発情期のα種を色仕掛けで堕とし、既成事実をつくるという姑息なやり方に腹が立った。自身はそれでこの世に生を受けた。発情期で、しかもΩ種のフェロモンの影響をまともに受けたα種には拒否権がない。本能の赴くままに子種を注ぎ、子孫を増やしていく。  そこに『愛』はないのだ。  エマに蔑まれ、時に手を上げられ血を流したこともあったシルビオは愛を欲していた。  父であるガスパルはシルビオを愛してくれたが、その愛は『エマが産んだ子供』という扱いでしかなかった。  偽物の愛――それはシルビオの心を黒く染め、次第に自身も持っていたであろう愛も深い水底に沈められた。  妻を娶ることが嫌なのではない。後継者を――子孫を残すことに抵抗があるわけでもない。  でも――。信じられない『愛』は『虚無』でしかない。  すぐ隣にあった温もりがいつしか消えていることに気がついたシルビオは、羽枕に頬を埋めたまま小さく吐息した。  発情期は一週間続く。その間は食事もロクにすることなく、ただひたすらに精を貪る。  王が発情期を迎えると国内はすべての行事が自粛され、警備は今まで以上に厳しくなり街は静まり返る。これは公務を行えない間に問題や抗争が起こることを想定し、あらかじめ牽制しておく必要があるからだ。  発情したシルビオを慰めるヘラルドもまた、彼が意識を失ったタイミングでそっとベッドを抜け出しては家臣に的確な指示を出すという仕事を強いられていた。  発情中、シルビオはヘラルドがそばにいないことに気付くと途端に機嫌が悪くなり、八つ当たりを受けた近衛兵が何人か首を刎ねられていたからだ。 「――ヘラルド」  長かった一週間が過ぎ、体のあちこちに痛みや怠さを感じながら寝返ったシルビオは、側近である彼の名を呼んだ。  か細い声ではあったが、声に反応するかのように部屋の扉が開き、端正な顔立ちがシルビオを覗き込んだ。 「お目覚めですか? 入浴の準備は整っています」  赤みがかった茶色い瞳は、劣情に駆られ獣のように激しくシルビオを抱いていた時とはまるで違っていた。  優しく、慈悲に溢れた温かい眼差し。  そっと指先を伸ばして、ヘラルドの頬に触れる。 「――腹が重い」 「申し訳ありません。シルビオ様も御存じの通り、発情期は精液の量も増えます。もっと、もっと……と足を絡められては腰を引くこともままならず」 「別に……責めてはいない。キスを……」  シルビオが力なくそう呟くと、ヘラルドは彼の頬に手を添えて薄い唇を数回啄んだ。  渇いた唇を潤すように、舌先で輪郭をなぞりながら濡らしてやると、シルビオは満足そうに長い睫毛を揺らした。  そして体に掛けられていた毛布をそっとはねのけると、薄い寝間着の下でポッコリと不自然に膨らんだ下腹を愛おしそうに撫でた。 「子を孕むというのはこういう気分なのだな……」 「どうしましたか? シルビオ様らしくない……」 「お前の精子は濃厚で、さぞかし有能な子が産まれるのだろうな。世のΩ種たちが泣いて喜ぶ」  モゾリと腰を浮かし、シルビオが上体を起そうとした時、後孔から注がれたヘラルドの精液が溢れ出した。 「――あっ」  恥ずかしそうに俯いて、上目遣いにヘラルドの顔を見つめたシルビオ。その顔がいつになく幼く、愛らしくヘラルドの目に映った。 「勿体ない……と縋る者の顔が目に浮かぶな」  照れた顔を見られたことが気になったのか、シルビオは勝ち気な態度で無理やり皮肉気に唇を歪めて見せた。  そんなシルビオにヘラルドはもう一度口付けると、柔らかな笑みを湛えて言った。 「そのような者はもう、この国にはおりませんよ。国中のΩ種は皆処刑いたしました」  ヘラルドの言葉に、長年苦しめられてきた発情期の苦痛から解放されることを悟ったのか、シルビオは満足げに微笑むと彼の唇を軽く啄んだ。 「良くやった。褒美は何がいい……?」 「滅相もございません。私はシルビオ様のお傍にいられるだけで光栄です」 「相変わらず欲のない男だな……。日頃抑えこんでいるお前の欲が爆発した時を見ていたいものだな」  恭しくベッド脇に跪いたヘラルドを揶揄するようにシルビオは言った。何かを試すような、見透かすような青い瞳に見据えられたヘラルドは、すっと視線を逸らすと静かに立ち上がった。 「貴方が恐れるものをこの世からすべて排除するのが私の努め。そして、貴方が欲するものは、どんな手を使ってでも手に入れる……。貴方を満たすのが、私の幸福……」  形のいい額を隠す前髪の奥で赤みが増した茶色い瞳が妖しく光った。  それに気づいたシルビオは自身の下腹をゆったりとした動作で撫でながら青い瞳を細め、舌先で唇を舐めた。 「――子が欲しいな」  思いがけないシルビオの言葉に、ハッと息を呑んだヘラルドが瞠目したまま彼を見つめていると、フンッと鼻を鳴らして「冗談だ」と顔を背けた。  ヘラルドは自身の拳をギュッと握り込むと唇を強く噛みしめた。  王が次に望むもの――それは金狼の血統を継ぐ後継者。  奥歯をギリリと鳴らし、無意識に伸び始めてしまった牙を必死に抑えこむ。  シルビオから顔を背け、締め切ったままの窓を開けた。  白いレースのカーテンが風にそよぐ。もう、発情するΩ種の匂いはしない。 「――入浴を済ませたら食事のご用意をいたします」  努めていつもと変わらない声音でそう告げる。しかし、ヘラルドは冷静ではいられなかった。  腰の奥がシルビオの甘い声を思い出して疼く。それが微かな痛みへと変わり、ヘラルドの未だ終わっていない発情を更に加速させていく。 (一体、誰と交尾するつもりだ……)  体の中で渦巻いた嫉妬――。それは、それまでシルビオに知られることのないよう心の奥底に仕舞い込んでいた密かな感情が目を覚ました証拠だった。

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