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(四)
沈丁花の香りがした。
(今は季節じゃないのに)
そう思って、顔の前を手で探ろうとした。
「良様!」
秀の泣きそうな声がした。
細くてしなやかな指に手を握られた。秀の手だろう。
「とりあえずは大丈夫そうだね。だが、小林先生の予約を入れておおき。検査はしてもらおう。良は大切な財産だからね」
祖母の声だった。
財産? 財産てなんだ?
しかし喉がひりついて声が出なかった。
「お水ですか。少しお待ちくださいね」
背中に手が入れられて少し起こされ、唇にガラスの冷たさが触れた。吸い飲みだろう。傾けられて水が飲みやすくなる。
それはぬるかったが渇いた喉と体に浸みわたるようだった。
「今晩は誠に失礼ながら、お隣に布団を敷かせていただきます」
そう言って秀が布団を一組運んできた。触れてみると僕のものよりやや簡素だった。
明かりが落とされた音がした。暗いはずの部屋で、僕はじっとしていられなくなった。自分の掛け布団の下から手を伸ばし、秀の掛け布団の下に差し入れる。
「どうなさいました」
「手を――」
繋いでくれと言う前に、秀の少しひんやりした手が、僕の手を握ってくれた。
「わたくしが驚かすようなことを口にしたのが、いけなかったのですね」
秀は僕が倒れた原因を当てていた。
「わたくしは始めからそのように教えられ育てられて参りました。学校よりはお稽古事、料理や作法などが重要と。それを当たり前に思っておりましたが、良様を驚かせてしまうこととなり、誠に申し訳ございません」
「学校には行ったのか?」
「発情期が来るまでは普通に通わせていただいておりました」
冷たかった手が少し汗ばんでいる。
「わたくしは奥手でしたので第二次性徴期を迎えるのが他の同級の者より遅くなりました。そんな中、初めての発情期が突然学校にいるときに起きまして……。自分で抑えようのない香りがあふれ出し、他の生徒からエサを見るような目で見られて……、それで学校が怖くなってしまったのです」
「そうだったのか」
祖母の専横ではなかったのだ。いや、祖母はただ政略の贄 を汚したくなかっただけかもしれないが、秀自身がもう学校はいやだったのだ。
「秀はもし僕がアルファで、秀のことをいやらしい表情で見たら嫌いになるか?」
秀がふっと笑った気配がした。
「そんなことはあり得ません」
「どうして? 僕の目が見えないからか?」
自分で言って胸がちくりと痛んだ。
秀の手にそっと力がこもった。
「良様はわたくしのことをいつもお気遣いくださっているからです」
かっと顔が熱くなる。明かりを落としてくれていて助かったと思った。
「ただ、わたくしのお役目は決められております。ですから、発情期の間は誰とも会わない場所でじっと過ごさねばなりません。たとえ、第二次性徴期をお迎えでない良様とでも顔を合わせるわけには参りません」
きっぱりとした言葉だった。そしてそれをきっかけに手がほどかれた。
「さ、もうお休みなさいませ。秀はすぐ隣におりますので、ご安心ください」
僕は静かに呼吸をしながら、秀の呼吸の音を聞いた。たぶん秀も同じようにしている気がした。
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