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第11話

 そして、高崎にとって生涯忘れることのない日が訪れた。梅雨が明けたのにも関わらず、その日は絶え間なく雲で陰り、いつ降りだしてもおかしくない天候だった。  神谷から連絡が入ったのは事務所を出てすぐ、時刻は午後九時を過ぎていた。 『アキが店に来ない』  いつもなら軽く受け流すところだが、神谷からの連絡とあっては無碍にすることもできない。なによりも高崎が今まで味わったことのないような妙な胸騒ぎがした。使える部下を何人か走らせ、高崎自身も黒塗りの車に乗り、自らハンドルを切った。  叩きつけるようにフロントガラスへ雨粒が落ちていく。  神谷からの連絡を受けてから三十分ほどして、高崎は店の前に着いた。明かりは灯っていなかった。試しにドアへ手をかけるが、当然のことながら鍵は開いていない。  勢いを増した雨は容赦なく高崎のスーツを濡らしていく。布を通して皮膚へと染み込んでいく冷たい水は、死を予感させるような嫌な温度だった。 『……キスもだめなの?』  唐突にカウンター越しに笑うアキの顔が脳裏をかすめる。 「……くそッ」  あの日、店を出る直前にアキが見せた寂しい笑みが頭から離れない。今思えば、どんな時でもアキは笑っていた。 「どこだ……?」  高崎は自身が濡れるのも厭わずに、アスファルトの上を駆け出した。辺りは暗く、等間隔で設置してある電柱の明かりを頼るしかない。一歩踏み出すたびに、水たまりがびしゃびしゃと音を立てて高崎の足元を濡らした。  曲がり角を抜けたところで高崎は一呼吸ついた。辺りに視線を走らせ、その姿を探す。だがどれだけ目をこらしても、視界に映るのは絶え間なく降り注ぐ雨と、暗闇だけだ。  思い違いだったのかと高崎が諦めかけたその時、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をくすぐった。湿気ったアスファルトの匂いに紛れたそれは、常人では判別できないだろう。かすかに香るそれは、血の匂いだった。

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