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ソドムフレイムの消炎

 玄関の靴箱の上 キーフックに赤い鳥がついたキーホルダーが掛かる。学校から帰宅して靴を脱ぎながら、奏介はそれを握りしめる。大学に通いながら、更にバイトを始めた浩介が夜に帰ってくる。玄関で出迎えながらに受け取っていた鳥のキーホルダーを浩介に手渡す。それが二人の合図。  脱衣所で奏介がシャツを脱ぎ捨てる。露になった傷痕を浩介が掌で丁寧になぞる。火傷を直視される熱がどんどん増していくのを、奏介は行為を繰り返す度に感じていた。手の暖かさがじっと痕跡を辿る。そうしてジリジリと感情を昂らせた浩介が、堰を切りむしゃぶりついて来るのを、奏介は今か今かと期待を高ぶらせながらに待つ。紅色の皮膚に浩介の唇が、舌が触れる。痛みを上書きするように高い体温で炙られて更には歯を立てられる。くっきりと歯形が刻まれるほど噛みつかれながら、奏介はいつも行き場を失っている浩介の感情をその場所に受ける。皮膚に深く刻まれてしまった傷を完全に消し去ることは出来なかった。けれど、その上に新たに傷を作る事は出来る。そうして、かつてそこにあった忌まわしいものを塗り替えてしまおうというのだ。  浩介は奏介の背中を直視出来ず、感情のやり場と自己嫌悪に苦しんでいた。なぜこんなにも奏介の存在が、火傷の痕跡が、心苦しいのか。少しずつ少しずつ、奏介は好転し始め以前の様に笑うようになってきていた。それが何故か浩介には痛くて悲しい。本来ならば喜ばしい変化だというのに、浩介はそれを素直に受け入れることが出来なかった。どうしてなのか自分でも理解出来ずに苛立ちが募っていく。然し、奏介自身に当たる事だけは絶対に出来なかった。消化できない憤りを抱え込み、すっかり生活が荒れた。苦労して進学した大学をサボり、昼夜酒を飲んでいつまでも眠っていた。心配した奏介が様子を伺うのを、何度も寝たふりでやり過ごした。 「浩介、……ごめん…ちゃんと、するね」  それが、どういう意味だったのかは分からない。ある日、奏介はそう囁いて眠る浩介の頬に微かに口付けをした。翌朝、飲み食いしたものでひどく散らかしていたはずのリビングはすっかり片付けられ、奏介は一人で朝の支度をしていた。忙しなく朝食の準備をして、洗い物をしている。きっちりと着込んだ長袖のシャツの袖を肘まで捲って。  浩介はまだ酔いの覚めきらない頭のまま、衝動に任せて奏介を床に引き倒し覆い被さった。奏介が着ているシャツを引きちぎり、乱暴に放り投げる。真夏にそぐわない長袖のシャツを、奏介を覆い隠す白い隔たりを、ぐちゃぐちゃにして破り捨てる。強引に裸にして食い破り、溜まった膿をぶちまける。ただただ苛々する。苛々している。  激しく渦巻いては、処理しきれぬ程に膨れ上がる凄まじい感情に浩介は今も苦しんでいる。  ひた隠しにしてきたが、浩介はこれまでずっと、薄皮の下に狂おしいほどの奏介への情愛を滾らせていた。奏介よりも先に年頃を迎え、奏介への愛欲が自分の中にある事を自覚すると、浩介はすぐに心の奥底へとその気持ちを押し隠した。奏介が実の兄弟であるという隔たりと、性別の問題と、それを越えることへの禁忌性を浩介は理解し、ちゃんと自制していたのだ。奏介もまた、淡く純粋な恋心を浩介に傾け、寂しさから自分を慰めていたとしても、一線を越える気は無かった。二人共、ただ密かに互いを思い合い、穏やかに側に居られればそれだけで良かった。  だというのにあの男は、自分の知らぬ所で奏介を踏み荒らしひどく穢した。何の罪も無い奏介の心を、断罪し引き裂いた。浩介はその事がどうしても許せなかった。奏介の恋情が罪だというのならば、自分もまた同罪であった。奏介は浩介にとっても唯一無二の存在であり、浩介の全てだった。奏介には変わらず天真爛漫なまま、無垢な存在でいてほしかった。けれど、奏介は身も心も傷ついてしまった。あの憎々しい男の手によって卑劣な烙印を遺されたのだ。  自分では無く、他の男が、他人が、奏介の心を暴き蹂躙し、そして身体を傷つけたということ自体が浩介には許せなくなっていた。浩介が胸の奥に押さえ込んでいた情愛と欲望は、あの日扉越しに味わった衝撃によりタガが外れて溢れ出し、憎悪とうねり混ざって歪んだ形で変質した。  浩介を苦しめている感情の正体は、獰猛な嫉妬だった。奏介の心を侵し支配しているのが、なぜ自分ではないのか…奏介の身体に消えない痕跡を残すのが、なぜ自分ではないのか、そう激しく嘆いているのだった。  奏介は、絶えず燃え盛る浩介の激情を受け入れた。浩介の中で爆発する情炎の温度に炙られる体の痛みこそ、奏介にとって待ち望んだ新たな支配だった。その炎は奏介が生まれた瞬間から浩介の中で発火し、これまではずっと穏やかに燃え続けていた。今はこんなにも激しく燃え滾っている。これこそが奏介がずっと望み続けた、浩介そのものだった。奏介は成長と共に、浩介の心の燻りにとっくに気付いていた。どんな燃え方であれ、奏介が焼かれていたいのはこの炎なのだ。焦がれてやまなかった愛しい支配だ。もう隔たりはどこにも無い。二人を裁く地獄の犬は業火に焼かれ燃え尽きて、跡形も無く消え去った。  バスルームの中で、背後から抱きすくめながら浩介が奏介の中に押し入る。淫靡なぬめりの音がニチニチと室内にこだまする。律動に合わせて、奏介が浩介の名をあられのない声で繰り返し呼ぶ。無防備な奏介の項の皮膚に、浩介は思いっ切り犬歯を突き立てた。  浩介の手の中で、小さな赤い鳥が生き生きと羽を広げていた。 END

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