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11❥葉璃の実力
葉璃の傍に居たいと志願した恭也に連絡をしてみると、 "そろそろ葉璃の頭から湯気が出そうです" と的を射ない返信がきた。
だがその模様が容易に脳裏に浮かんだ聖南は、ふっと微かに笑いさらに返事を返す。
スタジオを閉め切るギリギリまで、ダンサー等と共に明後日の生特番のための練習に励んでいた聖南だが、その最中も黙々と振付けを体に叩き込んでいるであろう葉璃を思っていた。
しかし不思議と、「大丈夫だろうか、不安に陥っていないだろうか、ネガティブさに押しつぶされていないだろうか」などと気をもむ事は無かった。
なぜなら葉璃は、あの手話を振付けとして体に叩き込む作業を、聖南達の想像以上に得意とするからである。
無理です、不可能です、明日までになんて覚えられません……葉璃にそんな言葉は似合わない。
これまで幾度となくピンチを乗り越えた葉璃を間近で見てきた聖南にとって、この急な任務を託す事は迷いもしなかった。
葉璃は、天性のリズム感と、目で見て覚える記憶力が突出している。
さすがにまだ完璧とは言えないかもしれないが、頭から湯気が出そうなほど必死で取り組んだ成果を見たい。
葉璃と共にスタジオへ降りてくるよう恭也に送った返事は、どうやらすぐに開封されたようだ。
スタジオの入口扉の磨りガラスに、ちょんまげが映った。
「ケイタ、あと一曲だけ合わせてもいい?」
外履きからスタジオ用のシューズに履き替えている葉璃を見やり、聖南はケイタを振り返る。
床に尻を付けてストレッチを行っていたケイタが立ち上がるのと、入口の扉が開かれるのはほぼ同時だった。
「うん? いいけど、どの曲?」
「 "あなたへ" 」
「え!? あ、ハル君……!」
聖南の言葉に驚きの声を上げたケイタが、ちょんまげ姿の葉璃に気付いてその意味を悟ったらしい。
恭也と現れた二時間ぶりの葉璃の姿に、聖南の足も自然と動く。
「お疲れ様です……」
「葉璃、今覚えてるところまででいい。 せっかくだから合わせてみ」
「はい、俺もそのつもりで降りてきました。 ケイタさん、……いいですか?」
練習後なのにすみません…と、何故か無茶な要求を呑んでいる葉璃の方がすまなそうにしている。
他のどんな者も成しえない事を突然押し付けられたのだから、「練習に付き合え」と横柄にふんぞり返ったとて誰も文句は言うまい。
聖南ならそうする。 むしろ「無理」の一点張りでこの話自体をキャンセルの方へ持っていく。
葉璃に発破をかけておきながら、動画を観たあの時の聖南はこう思っていた。
『俺には無理。 でも葉璃なら出来る』
振付けとして覚えろと言ったのも、「もしかして不可能ではないかもしれない」と葉璃にやる気を出してもらうためのその場しのぎに近かった。
そのやり方で成功するかどうかなど、聖南には分からない。
だが葉璃なら出来ると思ったのだ。
観終わってすぐ、ステージの上でケイタの隣に立つ葉璃が目に浮かんだ。 ……それはもう、はっきりと。
「もちろん! どの辺りまで覚えた? 半分くらい?」
「いいえ……」
「あっ、全然大丈夫だよ! ほら、急遽決まった事なんだし、明日のリハはとりあえず一番だけにしてもらうから心配しないで! たった二時間ちょっとじゃ覚えられるわけないよね、手話なんだもん! 俺も役で手話を習ってなかったら、きっと何日も何日もかかってスタッフを困らせてたかもしれない!」
首を横に振った葉璃は、俯いて指先をモジモジし始める。
ケイタの必死のフォローを前にプルプルする葉璃の頭から、萎れたうさぎの耳が見えた気がした。
いくらケイタのドラマの大ファンだからと、挿入歌の全容をついさっき知った葉璃にはやはり難しかったのか。
だからといって咎める気もさらさらない聖南が、ケイタの援護をしようと一歩近付くと、耳垂れうさぎがふっと顔を上げた。
「いえ、あの……ぜんぶ、です」
「ん、っ? 全部? ……全部って?」
「全部……?」
掻い摘んで事情を説明しておいたダンサー達も、傍に寄ってきたアキラも、葉璃の前に立つ聖南とケイタも、皆同じ事を思っただろう。
ここに居る者らのほとんどが、葉璃の本当の実力を知っている。
『まだ全部覚えてない、そう言いたいのか? いや、葉璃に限ってそれはねぇだろ……て事はまさか……』
顔を上げた葉璃の萎れていたはずの耳が、ピンと立ち上がっている。
聖南のまさかが、的中していたのだ。
「ぜんぶ、覚えました、たぶん……。 訂正箇所はいっぱいあると思いますけど、なんとか……フルで」
「えぇっ!? ええぇぇっ!? も、もう全部覚えたの!? それ本当!?」
「……はい。 あっ、でもほんとに、完璧ではないと思います……! 手話だから、少し違うだけで意味が変わりますよね? そこを訂正してほしくて、あの……一回でいいので練習を、……」
───二時間だ。 たったの、二時間だ。
ステップが無いとは言え、四分強の振付けをものの二時間ですべて覚えたと、葉璃は自信なさげに言った。
なるほど、聖南に見えていた幻覚のあれはうさ耳ではなかった。
本人も、そして傍で見守っていた恭也も言っていた別のものだ。 集中し過ぎた事により、まさに頭がパンク間近で沸騰している。
「葉璃、忘れねぇうちに一回通しちまおうな。 ケイタ、頼むぞ」
「わ、分かった!」
「……すみません、よろしくお願いします」
驚きを持って葉璃を見ていた成田を叱咤し、急いで曲を流すよう頼んだ聖南は、ケイタ側に立って鏡の中の葉璃を見詰める。
アキラと恭也もそっと聖南の隣に立ち、ふと見ると葉璃の方にはすぐそばにルイが居た。
腕を組み、何事かを葉璃に囁いたルイはパシっと気安く叩かれている。
『……へぇー。 ふーん。 毎日一緒に居てさらに仲良しになりましたってか?』
何やら不穏な気持ちが渦巻くが、ヤキモチを焼いている場合ではない。
まだ信じられない様子のケイタの隣で、瞬時にスイッチを切り替える葉璃の勇姿と頑張りの証拠をぜひ見届けたい。
聖南をはじめとする十四名の男連中が見守る中、成田の操作でスタジオ内に件の曲が流れ始めた。
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