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… … …
聖南にとって、それは初めての体験だった。
人との衝突から生まれた憤りや悔しさというのは、これまでの人間関係に不都合を感じた事の無かった聖南には真新しい感情だ。
過去の寂しさや侘しさとは違う。
自身の思いが信じてほしい者に届かない、歯痒さ。 これはぶつけようのない苛立ちにも似ていて、心底もどかしい。
かと言ってすぐに打開策を見付けようという気も起こらず、話が通じないのであれば、さらに傷を抉るような衝突をしないのが懸命だ。
つまり、顔を合わせなければ良い話。
しかしながら社長との諍いなど初めての事で、聖南はかなり動揺していた。
ルイと連絡を取り合い、自らが迎えに行く旨を伝えてから葉璃が撮影している現場に向かうまで、半ば放心状態に近かった。
聖南の方の撮影は、元々から雑誌編集部とスタジオ利用の都合で十七時までと決まっていた。 社長に呼び出され聖南が中抜けした分は、予め来週に設けていた予備日で補う。
珍しく葉璃と夕食を共に出来ると朝からウキウキの聖南だったが、まるで状況が変わった。
現物が手元に無いため、葉璃に説明しようにもうまく伝えられる気がしないというのも溜め息の種だ。
「はぁ、……」
撮影スタジオから目と鼻の先のコンビニの駐車場で葉璃の帰りを待っている聖南は、アキラとケイタには連絡しておくべきなのか、それも並行してしばらく悩んでいた。
二人がそれぞれ仕事中なのを見越し、メッセージを打とうしてはやめを繰り返していると、向こうからマスクをした葉璃が歩いて来るのが見えた。
聖南の車を発見したのか、途中から小走りになる。
俯きがちにも関わらず器用に歩行者を避け、運転席の聖南に目で合図を送ってから後部座席に乗り込んで来た。
車高の高い聖南の車に乗る際の葉璃は、必ず小さな掛け声付きだ。
「……ん、しょっと。 すみません、聖南さんっ。 お疲れさまです」
「お疲れ、葉璃」
……マスコミ対策が恨めしい。
後部座席に乗られると、手も握れないどころか直に見詰め合う事も出来ない。
誰の目にも留まらない場所へと移動すべく、聖南は早々と車を発進させた。
「いきなりどうしたんですか? こんなところまでお迎えに来てくれるなんて」
嬉しいですけど、とマスク越しにも分かるほどはにかんだ葉璃を、信号待ちをいい事にバックミラーから凝視した。
──何とも憂鬱だ。
こんなに可愛くて、大好きで、かけがえのない愛する人が居るというのに、聖南は身に覚えのない誤報をいつ世間に曝されるか分からない立場となった。
「聖南さん、青ですよ」
「あ、あぁ……」
指摘され、聖南は前方を見やってアクセルを踏んだ。
滑らかで振動の少ない走り心地は快適で、かつ少し目線を斜め上にやると愛しの葉璃を拝む事が出来る。
見えない何かで心が窮屈にさえなっていなければ、葉璃との今夜のディナー計画を立て、早い時間から愛し合う素敵な妄想で浮かれていられた。
まだ何も知らない葉璃は、信号待ちの度に視線を送る聖南にはにかんでくれている。 自惚れかもしれないが、運転中は眼鏡を掛けている聖南に未だドキッとしている、そんな甘さまで含んでいた。
「……葉璃、何食いたい?」
聖南はひとまず、夜は大食いとなる恋人の腹ごしらえを優先しようと決めた。
何でもいいよと付け加えるも、葉璃は首を傾げてお腹を擦る。
「え、うーん……。 実はさっき、編集の方にサンドイッチ頂いて食べちゃったんですよ」
「そうなんだ。 あんま腹減ってない?」
「はい、全然です。 ルイさんの分まで食べたんで……」
「あはは……っ、なんでルイの分まで食ったんだよ」
「いや俺が無理やりルイさんのを奪ったわけじゃないですよっ? あのサンドイッチはマズいとか言ってルイさんが食べないから……っ。 俺、結局四つも食べちゃって……っ」
「差し入れ残しちゃ悪いと思ったんだ?」
「……はい。 でも、お腹空いてたのもあります……」
「あはは……っ」
さすが葉璃だ、と片手でハンドルを握って笑う聖南に、頬を膨らませた葉璃がバックミラー越しにじっとりと睨んでくる。
張り詰めていた気が抜けた。
キュッと縛られていた聖南の心が、葉璃との会話で少しずつ晴れていくのが分かる。
「せっかくだけどメシはテイクアウトして家で食おうか。 腹減ったらその時に食えばいい」
「いいですね! あの和食屋さんのお持ち帰りですかっ」
「葉璃ちゃん、やっぱ腹減ってんじゃないの?」
「いえ、今はほんとに……。 聖南さんはお腹空いてないんですか?」
「俺もあんまり。 てか今日迎えに来たのは、まぁ……葉璃に会いたかったからなんだけど」
「えっ……」
「話もあって」
「……話? なんですか?」
「それは家で、な」
「ええっ、気になるじゃないですか!」
「ごめんな、もったいぶってるわけじゃねぇんだ。 ちゃんと向かい合って話したいだけで」
「……重要なお話って事?」
「かなりな」
「もっと気になります……」
葉璃の表情を窺い、苦笑を浮かべた聖南は自身がらしくない事を自覚している。
こうして先手を打ち、一度葉璃に身構えていてもらわなければ、打ち明けられそうになかった。
ただ会話をしているだけで癒やしてくれる葉璃には、初めて味わった感情の経緯も聖南の心中もすべて、話してしまいたい。
聖南は、みっともなく葉璃に縋りたくてたまらなくなった。 と同時に、鬱屈とした気分が晴れ始めているのは葉璃のおかげに他ならず、恋人の存在は尊いものだと今一度再確認している。
「あーでも、葉璃に会って、葉璃の声聞いて、葉璃に笑わせてもらったからかな……さっきより気持ちが軽くなってるよ。 ありがとな、葉璃ちゃん」
「……俺、サンドイッチ四つ食べた話しかしてませんけど……」
「あはは……っ、葉璃ちゃんかわいー」
「えぇ……っ?」
微笑む事も、声を出して笑う事も、まるで拗ねた子どもの意地のように、したくない心境だった。
けれど葉璃の前では、それが通せない。
無理に普通で居ようとしなくても、葉璃がそうさせてくれる。
何なら、小走りの葉璃を遠目に見付けた時から、冷えかけた聖南の心がぽかぽかと温かくなっていた。
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