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 聖南の問いに、葉璃は答えてくれなかった。  やはり〝うまく説明できない〟と濁し、一刻も早く社長室へ行くようもう一度諭された聖南は、葉璃に愛車の鍵を託した。  階下にはルイが居たので、彼にまだ時間があるようなら一緒に待っていてくれと告げたものの、葉璃は一度ハッとし、微妙な表情で見送られたのがやや気になる。 「ふぅ、……」  一体何を聞かされるのだろうか。  葉璃が言い渋った社長の提案とは何なのか。  考えても無駄な事だと知りながら、顔を合わせるのが気まずい聖南は社長室の手前にある秘書室の扉前で、何度もノックを躊躇する。  そこへ聖南のスマホが着信を知らせた。  振動するそれをポケットから取り出して何気なく画面を見やると、二・三ヶ月に一度気まぐれに連絡を寄越してくる実の父親の名が表示されていた。 「……マジかよ。 あとでかけ直すか」  何とも不思議なタイミングである。  まさにあの時と類似した状況の最中、普段なら思い出しもしない父親が、虫の知らせのように聖南に連絡をしてきた。  まったくの偶然なのだろうが、苦い心境を思い出すには充分だ。  マイペースで変わり者を自負する彼はきっと、聖南の現状など知りもしない。  拍子抜けするほど呑気な声色で、「元気〜?変わりない〜?」と父親面されるのが分かっていて、今通話するのは適時ではない。  静かになったスマホをポケットにしまい、聖南は意を決して扉をノックした。 「……俺だけど」 「どうぞ」  室内から返ってきた第一秘書の声が、食い気味だった。  聖南の姿を確認した神崎は、いつものように会釈し、その場から動かない。 これは、恭しく社長室の扉を開かせる事を良しとしなかった聖南が、彼女がここへ配属になった初日に命じた事である。  聖南は社長室の扉まで歩みながら、チラと香水のキツい神崎を見た。 恭也の話によれば、この神崎が一番きな臭い。  実際に届いてもいない郵便物を、いかにもそれらしく社長に手渡したのだ。 しかも全てではない。  恭也とのすれ違いざまにボロを出した神崎は、まだ見ぬ現物をいくつか所持している可能性がある。  ただ腑に落ちないのは、葉璃にも明かされた〝犯人〟の存在がもしも彼女であるとしても、そこにメリットを見出だせない点。  それだけでも、何が真実なのか、何が起きているのか、聖南にはさっぱり分からない。 「──俺だ。 入るぞ」  お飾りのノックを二回した後、内心では強行突破の勢いで社長室の扉を開けた。  未だかつて、物心ついてからこんなにもこの扉を開けたくないと思った事はない。  しかし、──。 「…………なに黄昏れてんの」  視線で無意識に探した社長の姿は、窓際にあった。 薄暗い空を見上げ、うるさい街並みを見下ろし、聖南の声にゆっくりと振り返ってくる。  「おぉ、来たか」と発せられた声に、覇気は無かった。 「………………」 「………………」  社長の動向など構わず、聖南はここでのいつもの定位置に落ち着いた。 対面した二人がけソファの奥側、腰掛けるのは社長と近い向かって左だ。  一見気難しそうな強面の社長が、まるでロボットのようにギクシャクとした動きでデスクに付く。  だが革張りの重厚な椅子を軋ませる事なく、社長は斜め下を見詰めたまま硬直し、微動だにしない。  聞いていた通り、様子が違う。  葉璃もルイも、聖南と社長の仲直りをけしかけるため大袈裟に言っているのだろうと、この部屋に入り彼の姿を見るまで聖南はそう思っていた。  こういう場合、往々にして傷付けた方はあっけらかんとしている事が多い。  諍いなど無かった体で、現れた聖南に向かっていつもの刑事面を見せ、優雅に煎茶を啜る──それを予想していたから気が重かった。  また聖南は、葉璃ごと傷付けられやしないかと。 「……なんだよ。 話があんだろ」  沈黙が嫌で口火を切った聖南は、次の瞬間大きくたじろぐ事になる。 「ああ。 しかしその前に……」 「は? ちょっ……おい、やめろって!」  社長はデスクに手をつき深々と頭を下げ、ゴンッと頭頂部がぶつかる音がした。 これは紛れもなく、聖南へ深い謝罪の意を示している。  先刻の彼の沈痛な面持ちから、茶番などではない事だけは分かった。  聖南は、この期に及んでふんぞり返ってそれを受け取るほどの尊大さを、あいにく持ち合わせていない。  驚愕のあまり立ち上がり、「やめろ!」と叫んで社長の肩を押した。 「……セナ、すまなかった」 「分かった、分かったから! 頭上げてくれ! んな事してもらっても嬉しくねぇよ!」 「お前の悲しげな顔が頭から離れなかった。 私はお前の家族同然だというのに、この歳になって真実を見誤っていた」 「いいから顔上げろ!」  聖南がいくら言おうと、尚も社長はデスクに擦りつけた地頭を上げようとしない。  それどころかさらに腰を折り、デスクが無ければ土下座でもしていそうなほどの逼迫感である。  〝こんな事をしてほしかったわけじゃない〟──この言葉通りで、聖南は激しく狼狽えた。  心構えをしていなかったわけではない。  葉璃からも仲直りを促された事で、気まずい空気は今日で最後にするつもりで、社長とは冷静に話し合う気でいた。  状況説明を受け、改めてレイチェルとの誤解を解き、その上で先日の諍いについてを切り出す。  そもそも例の写真が発端だったのだ。  犯人を特定したというなら、件の誤解を解くのも容易いかもしれないと僅かな期待があった。  しかしまさか、こうも唐突に謝罪されるとは予想外だ。

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