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 十五分の衣装替えも鬼みたいな指示だと思ってたのに、五分なんてあっという間。  肩を抱いてくるだけの聖南に寄り添われて、俺は結局何にも見出せていないまま……熊さんの「そろそろ再開するよー」という声が遠くで聞こえた。  うっ、と体を強張らせた俺に気付いた聖南が、コツンと頭をぶつけてくる。  そしてまた、何げない調子で口を開いたんだけど、それが……。 「頑張ったなぁ、葉璃」 「え……?」 「頑張ったじゃん」 「…………」  ほんのちょっと掠れたセクシーなその声が紡いだのは、今の俺にはふさわしくないはずの〝がんばった〟。  聖南にしては、小さな声だった。  一気に視界がぼやけてくる。  唇と目尻が小刻みに震えてきて、目の前を見つめていられなくなった。 「葉璃は頑張ったよ」 「…………っ」  優しい声に、俺はとても我慢出来なかった。  メイク直しが大変になっちゃう。瞼と涙袋が腫れてしまう。また撮影をストップさせてしまうかもしれない……。  そういうのもぜんぶ、頭では分かってても自分で止められるものじゃなくて。  聖南の声に、言葉に、肩に感じる手のひらの温かさに、熱いものが次々とこみ上げてくる。  俺はたまらず、タオル地のバスローブに顔を埋めた。  折れかけて弱った心に、聖南の「頑張ったな」がいっぱい、いっぱい、胸に染みたんだ。  駆けつけてくれた聖南に、俺はこれ以上ないくらいみっともないところを見せてしまったのに。  聖南は、俺が〝がんばった〟ことを褒めてくれた。  蹲ってたのも、熊さんに叱られていじけてたわけじゃないって、見つめ合っただけで気付いてくれた。  それが俺への精一杯の励ましの言葉だったとしても、聖南の「頑張ったな」が俺の心にトスッと刺さって留まった。 「…………っ」  俺……がんばった?  撮影を中断させてみんなに迷惑かけちゃってるのに、がんばったって言ってもらえるの?  俺が……?  ……ううん、ダメ。聖南、聞いて。  俺はがんばれてない。  ちっとも、がんばれてない……!  唯一の励ましの言葉さえおこがましいと思った俺は、タオル地のバスローブに声を吸収されながら、ネガティブでも卑屈でもない〝事実〟をみっともなく喚いた。 「でも聖南さん……っ、俺、肩に力が入っちゃって、全然自然じゃないって言われて、でもどうやったらリラックスできるのか分かんなくて……っ! 緊張してるっていうか、熊さんの求めることが何なのか見つけられなくて、このシーン撮り始めてから三十分も経ってて、みんなに迷惑かけちゃってて、俺……っ」 「葉璃」  出来ない、出来ない、出来ない……。  演じることと同じくらい、俺には〝自然体〟が難しい。  俺が一番恐れていたのは、やらなきゃスイッチが切れてみんなに迷惑をかけてしまうこと。  〝ハル〟が〝葉璃〟に戻っちゃったら、このリップクリームのキャッチコピーが俺にはまるでふさわしくないものになる。 「……葉璃」  こんな大役、はなから俺には無理だったんだ。  ちょっとダンスが踊れるからって、どうして俺に白羽の矢が立ったんだろう。  ここはステージじゃない。  踊ることも歌うこともない、演技の実力だけを求められるこのスタジオに、どうして俺が居続けられるなんて大それた勘違いをしちゃったんだろう。  やる気だけで何とかなるものじゃない。これは仕事なんだ。  がんばれば出来る、……そんな生易しいものじゃない……! 「葉璃!」 「──っ!」  何度も聖南に呼ばれてたのには気付いてたけど、不相応な現場で〝分からない〟と〝出来ない〟で支配された心は、少しの余裕も無くなっていた。 「俺の声、聞こえてるか?」 「……は、い……」  肩を抱いていた大きな手のひらが、俺のこめかみに移動した。  グッと頭を引き寄せられた俺は、そう囁かれて顔を上げる。 「あとは聖南さんに任せとけ」 「えっ?」  雑音にかき消されそうだった聖南の声を、誰よりも大切な人の言葉を、聞き逃すところだった。  ただ、言ってる意味は分からなかった。  ── 任せとけ……そう言った?    立ち上がった聖南を目で追うと、なぜかその綺麗な顔に小さな笑みを浮かべていた。 「申し訳ないんだけど、葉璃のメイク直してやってー! あと瓜生さんと監督、ちょっと話が!」  言いながら、聖南は早歩きでカメラの調整をしている熊さんのもとへ歩んだ。そこに監督も寄って行って、何やら三人で話し込んでいる。  俺のもとには、今日一日お世話になってるコンクレの先輩後輩さんが走ってきてくれた。  ぐしゃぐしゃになった髪と顔を直してもらってる間、背後の三人が気になってしょうがない。  ……どうしよう。  ちょっと話が、って……聖南、カメラマンと監督にいったい何を直談判してるの。  俺が絡むと度々私情を挟みがちになる聖南だけど、今回はキレてるわけでも、不満を訴えてるわけでもなさそうで……。 「頑張ってください、ハルさん」 「ハルさん、頑張って……!」 「…………っ」  数分で手直しをしてくれた先輩後輩さんには、一部始終を見られてたんだろう。とっても心配気な表情で、心のこもった励ましの言葉をもらった。  ぺこっと小さく頭を下げた俺に優しく笑いかけて、二人はパタパタと去って行く。  かわりに、話を終えた聖南が戻って来た。 「せ、聖南さん……っ? 今監督さんたちと何を話して……っ?」 「俺ここにいるから」 「えっ!?」  ど、どういう事!?  任とけって言われた時より意味が分からない。  グリーンバックの中央に俺を立たせた聖南が、耳元でさらにこう言った。 「〝熊さん〟は葉璃だけを撮ってる。葉璃は、俺だけを見てりゃいい」 「…………っ?」  それだけを囁いて、聖南は俺から離れて行った。……と言っても、グリーンの壁の外側に捌けただけで、俺が立ってる場所から二メートルも離れてない。 「はーい、じゃあ再開するよー。各所OKだったら合図してー」  聖南をスタジオ内に残したまま、熊さんが撮影再開の号令を掛けた。  すぐそこに聖南が立ってるのに。  何が何だか分からない俺は、ビューファインダーを覗く熊さんから微妙な立ち位置の指示を受けて、カメラに背中を向けた。 「五秒前からいくよー。五、四、三、二……」  監督さんのカウントダウンの合間に、腰紐を解く。  まだ何にも正解を掴めていないけど、始まってしまったからにはやらなきゃならない。  すぐそばから熱い視線を感じながら、バスローブをじわじわと肩から下へずらしていった。それをお腹と胸元の間で止めて、ずり下がらないように腰紐を使ってキツく縛る。 「…………っ、」  ごく、と唾を飲み込む。  もう失敗できない。  もう長引かせられない。  今度こそOKもらわなきゃ──。  四秒かけて左を向いて、顎の角度を二十度上げて〝自然に微笑む〟……それだけのことを、俺は三十分以上かけても出来なかった。  熊さんのこだわりが強いんじゃなく、俺が出来ないだけ。  ここまで撮ってきて教わったことが、何も身についてない。呆れられるのも当たり前だ。  こんな情けない俺を、聖南はどんな思いで見てるんだろう。  今まで気にならなかった、カメラの向こう側からのたくさんの視線も今頃になって気になりだした。  俺を選んでくれたコンクレの社員さんたちは、こんな事も出来ないのかってきっとガッカリしてるだろうな。  撮影のスタッフさんたちは、一日熊さんから怒られても頑張ってるのに最後がこれかよって、俺にムカついてるんだろうな。  結局見つけられないままの満島さんだって、「ほらね」と不安を的中させて歯ぎしりしてるんだろうな。 「…………っ」  そんなネガティブなことを考えながら、心の中で四秒数えて、聖南が居る方を向く。  聖南は無表情だった。目が合っても、笑ってくれなかった。  本番中なんだから当たり前だ。  静まり返ったスタジオ内。ちょっと離れたところに設置された巨大な扇風機から、髪がほっぺたにかかる程度の微風がそよぐ。  その風とたくさんの視線を感じつつ、何回もやるうちに体で覚えた二十度の角度に、顎を反らした。  この間、一秒。  あとは笑うだけ……。  〝自然に微笑む〟、だけ……。 「…………」  俺を熱く見つめてくる聖南と、目が合い続けた。  聖南が何を思ってるのか、何を考えてるのか、ホントは俺に何を言いたいのか、少しも分からないなんてことは初めてだ。  でも、俺を見つめる視線はこう言ってる。  ──葉璃ちゃん、好きだよ。  俺に分かるのは、それだけ。  だって毎日、目が合うたびに聖南は言うから。  ── 聖南さん……好きだよ。俺も大好きだよ、聖南さん……。  頭の中の聖南がとても幸せそうに微笑んだ瞬間、俺はいつも通り、大好きの気持ちをそっと心の中で返していた。

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