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第4話 ここにいる理由
翌朝。
ぱちっと目を覚ました周は、広々としたベッドの上に、一人で横たわっていることに気づく。身体中を見回してみても、何か変なことをされた形跡はない。身体は軽いし髪も肌もさらさらで、清々しい朝だった。
「……あいつ、ほんとに何もしなかったんだ」
闇オークションで競り落とされてからこっち、男によって『性的な対象』として見られる恐怖を覚えた周である。
ついこの間まではただの学生だったというのに、『吸血鬼の末裔』という付加価値がつけられた途端、億単位の金で取り引きされた。周の意志などお構いなしに、家畜のように売買されたのだ。
煌々とライトが当たったステージの上に、素っ裸で立たされた。あまりにライトが眩しくて、周を値踏みする金持ちたちの姿は暗がりになっていた。うぞうぞと闇の中で蠢くのは、欲に塗れた大人たちの視線だ。ただただ、怖かった。
そして買い上げられた後、高級車の中で見知らぬ中年男にされたことも、周の中に恐怖として残っている。
『ハァ……ハァ……いいね、じつにいい……きれいな子だ。これから、毎晩可愛がってあげるからね』
目隠しをされ、薬で自由を奪われるだけでも恐ろしかったのに、ズボンを下ろされ、シャツを捲り上げられたかと思ったら、粘っこい舌が肌の上を這い回るのだ。おぞましい感覚だ。ぶよぶよとした太い指が縮こまったペニスを扱き、先端をかぷりとしゃぶられながら、アナルをねっとりと愛撫され……周は歯を食いしばり、屈辱に耐えることで自我を保った。
そして、『ま、この子も可愛いけど……。でもなぁ、もうちょっと若い子を競り落としたかったなぁ〜』などという独り言を耳にした瞬間、嫌悪感はマックスを振り切った。
萎えかけていた気力を振り絞り、周は吼えた。ずっとおとなしくしていたのに突然大声を出した周に怯え、男が顔を離したその隙をねらい、思い切り顔面を蹴り飛ばす。薬を飲ませていたため油断したのだろう、手足は拘束されていなかったのが幸いだ。
目隠しを毟り取ってみると、車内は悪趣味な内装の施された広いリムジンだった。周は、喚く男を殴って黙らせ、必死の思いで肘や足でパワーウィンドウを蹴り破った。後続していた車からボディガードたちが駆けつける寸前で、周はリムジンから飛び出したのだ。
そこからは、宇多川のいう通り浮浪者のような生活をしていた。誘拐時に遠くの町まで連れてこられていたようで、土地勘のない都会に苦労した。元いた町へ戻ろうかとも思ったが、唯一周が頼れる場所だった病院の前で拐われたのだ。戻れば、再び拐われる可能性が高くなる。
両親のもとへも、戻れるわけがない。
――ま、ラッキーといえば、ラッキーか。
若干気味の悪いところはあるが、宇多川は妙な性癖を持っているわけではなさそうだし、職業もまともそうだ。周を舐め回していた助平親父に比べれば、だいぶマシな人物だと思わざるを得ない。
といっても、宇多川が求めているのは周の血液だ。まだ、これから何をされるか分かったものではないのだが……。
「……あ〜あ、腹減った」
昨日血を与えられたおかげで、身体は軽い。だが、胃袋は空っぽであるらしく、腹の虫が泣いた。
着せられていたバスローブの紐を締め直し、周はだだっぴろい寝室を見回す。ダブルベッドがどんと部屋の真ん中に置いてあり、あとはウォークインクロゼットがあるだけだ。フローリングの床は裸足に冷たく、ぶるると体に冷えが這い上がってくる。
どこもかしこも静かな家で、だんだん不気味になってくる。掃除は行き届いているようだが、ひと気がないせいか、家中に冷気がこびりついているような。
「……あれ?」
物音がする方へ歩を進めて行くと、ようやくリビングに到着した。ドアを開けてそっと中を覗き込んでみると、これまただだっ広い部屋である。ひたひたと足を踏み入れてみると、奥にあるキッチンで宇多川が何やらゴソゴソしている。
すでにパリッとしたワイシャツにスラックスという格好をした宇多川は周に気づくと、無表情に「おはよう」と言った。
「よう眠れましたか?」
「うん……まぁ。ねぇ、腹減ったんだけど」
「おやおや、そうですか。まあ……そらそうやな。あれっぽっちの血液で腹が満たされるわけないか……ちょっと待ってや」
何かあたたかいものでも作ってくれるのかと思いきや、宇多川が白い皿に載せて出してきたのは、一枚の食パンだった。焼いてもなければ何か塗ってあるわけでもない、シンプルな食パンである。だが、この二週間、まともな食事など一度もしていなかった周にとってはありがたい。すごい勢いで一枚平らげて、飲み込みきれずにごほごほとむせてしまう。
「ちょうどコーヒー淹れよと思ってたとこやねん。飲めるか?」
「うぐ、っ……んっ、んっ……」
「よほど腹減っててんなぁ。もう一枚食べ」
「……あんたは、食べねーの?」
普段は飲めないブラックコーヒーでさえも美味く感じる。といっても、一気に飲み干したので味など分からなかったのだが。散らかったテーブルの上に置かれたマグカップにもう一度コーヒーを注ぎ、宇多川は音もなく向かいに座った。
「朝はコーヒーだけや。普段の食事は学食なんかで済ませてまうからなぁ」
「おいおい、じゃあ俺、ここでの飯どうすんだよ」
「君も一緒に大学へ来てもらいますよって。食事もそこで取ってもらいますよ」
「大学……ああ、あんたの仕事場」
「そう。さっそくと言ってはなんですが、今日、採血させてもらいます。いいですね?」
「……ああ、うん」
周が素直に頷くと、宇多川はしげしげと周の顔を見ている。不躾な視線が気に食わず、「なんだよ」と言ってそっぽを向くと、宇多川はこんなことを言った。
「顔色は良いようやね。それは吸血効果によるものかな?」
「それもあるかもしれねーけど……久々にまともに眠れたし、風呂にも入れたし、飯も食えてるわけで……」
「なるほど。それは何よりや」
「……あのさ、その採血ってのが終わったら、俺は解放してもらえるわけ?」
周は内心、しまったと思った。行くあてもないくせに、そんなことを尋ねて何になる。ようやく眠れる場所を見つけたというのに、みすみすそれを手離すようなことを言ってしまった。だが宇多川は二、三度首を振り、こう言った。
「分析結果が出るまでに少し時間がかかるし、それに、もし君の血液が有用となった時、もうしばらく僕に協力してもらわなあかん。こんなとこに引っ張り込まれて警戒するのは分かんねんけど、もう少し、ここにいてくれはりませんか?」
「……俺の血液が、有用じゃない、ってなったらどーすんの?」
「その時はもちろん、君は自由や。相応の謝礼を渡すから、好きなところへ行ってもらってかまへんよ」
「……ふぅん」
宇多川の淡々とした口調に、妙に落ち着かない気持ちになる。
当然のことなのだが、宇多川が血みどろになってまで手に入れたかったのは、『研究に役立つ吸血鬼の血液』なのであって、周自身ではないのだ。もし、分析結果とやらが良い方向に出なければ、周はまた放り出されてしまうのだろう。
――……いやいや、待て待て……俺、別にここにいたいわけじゃ……。
妙な葛藤が生まれていることに、周は苛立った。わしわしと黒髪を掻き回して「うー」と呻いていると、宇多川はハッとしたようにこう付け加える。
「もちろん、ここにいてもらう間は、約束通り、君は好きな時に僕の血を飲んだらいい。君がどの程度血液を必要としてるのかはまだ分からへんけど、今朝僕は別に貧血にもならへんかったし、これからはなるべく鉄分の多い食事を心がけるから」
「えっ? あ……ああ、うん……」
「この条件でどうやろう。しばらくここにいてくれるか?」
「……うん……まぁ、いいよ。せっかくだし……」
「そうか、よかった」
安堵したように眉根をゆるめ、宇多川がため息をついている。周もまた、内心ひそかにほっとしていた。
すると、目の前にすっと大きな手が差し出された。見上げると、宇多川が周に握手を求めている。
「改めて、よろしゅうお願いします。……えーと、君、名前は?」
「……月森、周 」
「あまねくん……月森くん?」
「あまね、でいいよ別に」
「ほな僕のことも、気軽に真人 とでも呼んでやってください。よろしゅうな」
「……まさひと」
――しばらく、ここで休むだけだ。だって自由に吸血していいっていうんだぞ? すげぇラッキーじゃん。
真人の掌を凝視しながら考え事をしていると、宇多川の右腕の内側に、絆創膏が二つ貼られていることに気づく。昨晩、周が噛んだ場所だ。
――ここにいれば、またあの感覚を味わうことができる。飢えなくて済むんだ……。
あたたかく満たされたあの感覚を思い出すと、むらむらと吸血欲が湧いて来そうになる。だが、周はそれを打ち消すように、一気にブラックコーヒーを飲み干した。
――しゃんとしろ!! 俺はこれから、一人で生きていけるようにならないといけないんだからな!
と、気合を入れたものの、周は酸味のある濃いブラックコーヒーに、派手にむせてしまった。宇多川――改め真人は、ちょっと気の抜けたような表情をして、周にティッシュを差し出した。
「げほっ、うぇっ! ……にっが」
「やっぱりお子様にはブラックは無理やんなぁ。今日、牛乳買って帰りましょか」
「う、うっせー! お子様扱いすんな!!」
さっきは一気飲みできたのに、今度はめちゃくちゃ苦かった。
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