5 / 34
第5話 『寂しい』気持ち
そして周は真人の車に乗せられて、ともに『宇多川研究室』とやらにやって来た。すると、真人がドアを開けるやいなや、一直線に大柄な男が向かってくるではないか。
逞しく盛り上がった胸筋は、ラガーマンを彷彿とさせる。眉は太く目も鼻も口も大きい賑やかな顔立ちで、パリッとした白衣が非常に清々しい男だった。
だが、表情はやや不機嫌そうである。
「おはようございます。ちょっと宇多川先生、なんなんですか昨日のアレ! 急に変なメールよこしてきて、行ってみたらまるで殺人現場だ! 俺、びっくりしたんですよ?」
「ああ蘇我 くんおはよう。いや、すまんすまん。ラットの血液サンプル、派手にこぼしてしもて」
「はい? ラット!? いやいやいや何百匹分ですか…………ん?」
蘇我と呼ばれた大男は、周の存在に気づいたらしい。大きな目をくわっと見開き、鼻の穴を派手に膨らませながら、焦げ付くような視線で周を見つめているのだ。あまりの迫力ある表情に、横で真人が二度見している。
「し、して宇多川先生……? こ、こちらの方は……?」
「……。訳あってうちで預かってる親戚の子」
真人はほんの一秒迷ったようだが、無表情のままサラッとそんなことを言った。「親戚……」と呟きながら真人を見上げると、絶妙に圧のある流し目が送られてくる。
「……どうも。叔父がいつもお世話になってます。月森周といいます」
「お、おお……れ、礼儀正しいんですね!! え、ええと? こ、高校生?」
「はい」
高校には進学していないが、周はしれっと話を合わせた。すると蘇我はなぜか、大仰にうんうんと頷いている。
「へ、へぇ、男子高校生……! いや、すごいな。モデルさんみたいにきれいなお顔で……!!」
「はぁ……ありがとうございます」
蘇我は何やらわたわたしながら、自分のデスクに名刺を探しに行ってしまった。
真人によると、彼は宇多川研究室の助手を務める講師・蘇我 征 。
すぐ髭が伸びてしまうたちであるらしく、夕方以降に遭遇すると、グリズリーを彷彿とさせる姿に変貌しているらしい。体格も見事だが体力の方も有り余っているらしく、激務の合間にランニングなどに勤しんでいる。真人も時折運動不足解消のため、彼に付き合うこともある……などなど、周は一瞬のうちに蘇我の情報を得ていた。
「それはいーんだけど。ここで俺の血、とるの?」
「いや、附属病院に僕の先輩がおるから、採血と分析はそっちでやるねん」
「ふうん……」
「ええと、白衣白衣……」
堆く書類やファイルが積み上がったデスクは、まるで真人の『巣』のようだ。手持ち無沙汰になった周は、壁にもたれて研究室の中をきょろきょろと見回した。
『研究室』というものは、もっと狭いものだと想像していたが、真人の研究室はそこそこの広さがある。部屋はガラス戸で二つに区切られ、デスクの並んだ空間と実験室とに分かれているようだ。ややこしそうな装置やモニター画面が並んだ実験室には、白衣とマスク、そしてゴーグルを身に付けた若者が数人いて、チラチラと周のことを気にしているようすだ。
「あ、あのっ、俺、蘇我征っていいます。あ、二十七歳です! あの、よかったら名刺……!」
「えっ? あ……はい、どうも……」
突然にゅっと接近してきた蘇我に驚きつつも、名刺を受け取る。蘇我は顔を赤くして、大きな身体でモジモジしながら、「あ、あの」とたどたどしく話しかけてきた。
「いやぁ、先生にこんな若いご親戚がいたなんて、びっくりです」
「あ……はぁ」
「先生、ご自分のこと全然話されないから、研究室にわざわざ連れてこられたことにもびっくりっていうか」
「へぇ……そうなんですね」
「先生って女子学生に密かに大人気なんですけど、いやあ、イケメンの遺伝子ってすごいですねぇ。俺なんてこんなだし、歳も二つしか変わらないのに、かたや准教でかたや助手ですよ? はは、羨ましいなぁ」
「……ん? 二十七で、二つ違いって……え? 真人ってまだ二十九なんすか?」
「えっ? ええ、そうですよ? 知らなかったんですか?」
「あっ、あ〜……あはは。そういえば歳聞いたことなったなーって。てっきり三十五、六だと……」
「まぁ、若い人からしたら、俺たちの年齢なんてみんな一緒かなぁ」
「いや……」
「落ち着いてますもんね、宇多川先生。歳の割に、妙に貫禄あるし」
ちら、と真人の方を盗み見た。真人が研究室に現れるのを待ち構えていたかのように、数人の学生がノートを片手に質問をしている。表情はいつもと全く変わらないが、てきぱきとした口調で質問に応じ、次の手順について学生とディスカッションしている姿は、なんだかとても立派に見えた。
「教授会なんかでもね、お偉いさん方相手に全然引かないですから。もう我が道まっしぐらって感じで、強い強い……」
「へぇ……。でもそんなんでやっていけるんすか? 権力的なものに潰されたりとかしそうだけど」
「それは俺も冷や冷やしてるんだけどねぇ。でも宇多川先生の研究はこの分野では第一線だから、みなさん無視できないわけですよ」
「ふうん」
慣れてきた周が砕けた口調になると、蘇我はちょっと嬉しそうに頬を赤らめ、さらに饒舌になった。これまで真人が成し遂げてきた成果についてしゃべりまくるのだ。
そしていつしか話題は自分の研究内容に及び、徐々に声は大きくなり……周はだんだん引き始めていた。
それでも蘇我の猛攻はヒートアップし、とうとう「もしよかったら、今度二人でご飯でも……!!」と誘いがかかろうとしたとき――蘇我の顔が、黒いバインダーの向こうにひょいと隠れた。
「こら蘇我くん、顔近すぎやで。周がびっくりしてるやろ」
「あっ……! す、すみません……」
真人のクールな視線に、蘇我はようやく我に帰ったらしい。壁に背中をぴったりくっつけて表情を引きつらせていた周は、その隙にサッと真人の背に隠れた。ついでにいうと、サラッと名前呼びされたことにも違和感を禁じ得ない。だが、親戚という設定なのだから致し方ないのだろう。
「ほな、いこか周」
「あ、うん」
「あっ、ま、待ってください! 話はまだ途中……」
さりげなく肩を抱き寄せられ、周は目を瞬きつつ真人を見上げる。人前だとずいぶん親しげなそぶりをするものだ。そこまでしなくてもいいのにと思いつつも、肩から伝わる温もりはくすぐったく、気分の悪いものではなかった。
「まあ、また今度、三人で飯でも食おか」
「えっ!! いいんですか!! うおおおおおお!!」
「ほな、あと頼むわな」
「ういっす!!」
研究棟全体に響き渡りそうな蘇我の大声に、周は思わず耳を塞いだ。
+
「真人って、まだ二十代だったんだな」
附属病院へ向かうべく中庭を歩きながら、周は間延びした声でそう言った。真人は、さっきとは打って変わって微妙な距離感を保っていて、斜め前をゆっくりと歩いている。
「そうやけど……そんな老けて見える? 僕」
「うん、まぁね」
「……」
「え、何? 傷ついてんの?」
「……。いえ別に。よう言われるから」
「ふーん」
表情はどこまでも一定だが、明らかに若干凹んでいる空気を醸している。血を飲んだせいか、なんとなく、出会ってすぐにしては真人を近く感じるようになっているような気がしていた。鉄面皮のくせに意外と繊細らしいところが、なんだかちょっと可笑しくて、周は小さくふっと笑った。
「へんなの。俺からすりゃ、二十九も四十もみんないっしょだし。おっさんだし」
「お……オッサン? 僕が? ……オッサンて言われたんは初めてや……」
「あははっ、やっぱへこんでんじゃん」
明らかに表情をひきつらせている真人を指差しながら、周はけらけらと笑った。はじめはぴくぴくと眉を震わせていた真人だが、腹を抱えて笑う周を見つめながら目を細め、口元を緩めた。
「笑えるんやな、君」
「え? 何?」
「いろいろあったみたいやけど……そんなふうに笑えるんやなと思って。なんやちょっと安心した」
「……」
真人の穏やかな眼差しと声が、心地良く周を包み込む。金木犀の香りを孕んだ風が、さぁ……っと周の黒髪を撫でてゆく。
こんなふうに、優しい言葉をかけてもらえたのはいつぶりだろう。
ヴァンパイアと分かってからこっち、両親は周に対して、『絶対に人に気づかれるな』『バレたら終わりなんだから』と、周の心配よりも世間体ばかり気にしていた。
自分の身に起こったことに対し、一番不安を感じていたのは周自身だったのに。自分がそうであると分かった十歳の頃、何度一人で泣いたか分からない。過去に暗躍した吸血鬼の歴史について、周はとっくに学校で学んでいたからだ。
自分にも、あのおぞましい生き物と同じ習性が備わっているのかと思うと恐ろしくて、突然世界が怖くなってしまった。眠っている間に、周の意思とは反する行動をとってしまうのではいかと思うと、ゆっくり眠ることさえできなくなった。
飢餓を我慢しようにも耐えきれず、血液パックに牙を立てながら感じた、あの惨めさ。だが同時に周の肉体を潤してゆく、あの高揚感……。自分はもう人間ではないという事実を否応なく突きつけられ、死を考えたことだってあったのだ。
だからだろう、こうして周の感情に心を寄せてくれる真人の言葉が、周の胸に染み込んでくる。だが、そのむずがゆいような感情を素直に認めることができず、周はつんとそっぽを向いて、すたすたと真人を追い抜いた。
「……別に、あんたに心配される筋合いねーっつうの」
「うん……まぁ、そらそやな」
「ま、貴重なヴァンパイアのメンタルヘルスに関わることだろし? それで気になるのかもしれねーけどさ」
「メンタルヘルス……」
「俺は大丈夫だよ。いろいろあったけど、全部それ、乗り越えてきたんだし?」
「そうか。強いんやな、周くんは」
「まーね。……だって俺、吸血鬼だもん」
だんだん声が小さくなってしまったことに、真人は気付いているだろうか。上を向いて歩いていたはずなのに、周の視線は、気づけばスニーカーの爪先へと向いている。
真人の言葉に心が揺れ、これまでずっと硬く張り詰めていたものに綻びが生まれたのかもしれない。硬い殻に覆われていた心のひび割れから顔を出すのは、『寂しい』という感情だった。
ぬくもりが恋しくなり、妙に切ない気持ちになった。
ともだちにシェアしよう!