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第6話 路生という男
真人に連れてこられたのは、礼泉総合医療センターという巨大な医療施設だった。
白やクリーム色でいかにも無害そうに作られた建物は、まるで迷路のような造りをしている。真人に案内してもらわなければ、絶対に目的地にたどり着くことはできないだろう。
中央玄関から入って十分程度は歩いだだろうか。ようやく到着したのは、指定難病治療センターというプレートの掲げられた棟だった。なんとなく緊張してしまい、周はごくりと唾を飲み込む。
「今から紹介するドクターには、ヴァンパイア捕獲作戦について話してある」
「捕獲作戦て。ていうか、あの蘇我っていう助手にはなんにも言ってないのに?」
「うん。研究室のメンバーには、ヴァンパイアの血液云々のことは伏せてある。彼らには彼らの研究テーマがあるし、僕は彼らを教え導く立場でもあるからね」
「へー……若いのに大変だね」
「そらどうも」
「で、そのドクターってのは信頼できるやつなの?」
「……うん。僕の先輩やねん」
「ふうん」
真人はそう言って、『仮眠室』と書かれたドアをコンコンとノックした。返事を待たず真人は「失礼しますよ」と声をかけ、ガチャリとドアを開けて中へ入ってゆく。すると。
「えっ!? う、宇多川先生!?」
周は見てしまった。
手狭な部屋に四台並んだ二段ベット。一番壁際に据えられたベッドの下段に突っ伏し、白い尻を突き出している男と、大慌てでズボンを引っ張り上げている若い男性看護師の姿を。
周とて十六歳だ。ここで今どのようないかがわしい行為が行われていたかということくらい、容易に推測がつこうというものである。
しかも周は鼻がきく。薄暗い部屋の中に充満している甘ったるい人工的な匂いと、生々しい雄の匂いを嗅いでしまい、あかぁぁと顔が赤くなってしまった。サッと真人の両手によって視界が封じられる。
「ちょ、真人、なにすんだよ!」
「あ、あの、しつれします!! すみません!!」
周が真人の手から逃れようと頑張っている隙に、看護師は足音もけたたましく仮眠室から飛び出していった。足音が遠ざかっていったかと思うと、今度はくすくすと笑う声が聞こえてくる。そして、憮然とした真人の声も。
「……なぁ路生 。もうそういうの、ええ加減せぇよ」
「いいやん別に。仮眠室でナニしようが、俺の勝手やん」
ようやく真人の目隠しから逃れてみると、気怠げな動きで着衣の乱れを直している男の姿が目に飛び込んでくる。ゆっくりとスラックスを引き上げ、乱れていた上衣の裾を正しながら、男は緩慢な動きでこちらを見た。
だが、周の姿を目に移した瞬間、男の目つきが鋭くなる。息を飲む男の表情はあまりにも剣呑に見え、周はぎょっとしてしまった。
「……誰や、その子」
「例の作戦。成功してん」
「作戦? ……え? は? まさか、ほんまに……?」
「そう、そのまさかや」
濃紺のスクラブに身を包んだ男は、早足で周に近づき、不躾なほどの近距離で見つめてくる。思わずじりじりと後ずさると、真人の身体にぶつかってしまった。
「マジか……ほんまに?」
「そんな睨まんといてあげてくださいよ。怖がってはるやん」
「べ、別に怖くねーし。びっくりしただけだし」
強がりながら胸を張り、周は路生と呼ばれた男と対面した。
痩身で、身長は周よりも少し高いくらいだろうか。ゆるくカールした栗色の髪は柔らかそうで、いかにも育ちの良さそうな雰囲気を醸 す男である。ついさっきまでセックスにふけっていたせいだろうか、頬は上気し唇は赤く、知的な奥二重の目元には妙な色気がある。
周が目を瞬きつつドキドキしていると、路生はようやく険しい表情を緩め、周にやんわりと微笑みかける。
「真人のアホみたいな作戦に引っ掛かるヴァンパイアもおるんやなぁ。もっと知能の高い生物やと思ってたけど」
「………………は?」
「しかも、えらい可愛いのが釣れてんなぁ。ぼく、いくつ?」
「……な!? な、なんだよその言い方!! 真人、なにコイツ!!」
初対面だというのに随分な言われようで、周の頭にもかーーーっと血が上ってしまう。真人は呆れたようにこめかみを押さえ、まあまあと周を宥めにかかった。
「ごめんな。こういう人やねん」
「ハァ!? 説明になってねーよ!」
「日頃の激務がたたって、性格がひんまがってしもてはるんや」
「ひん曲がってるってレベルじゃねーだろ! 失礼すぎじゃね!?」
「まあまあ、すぐ慣れるから大丈夫やって。ちょっと嫌味なだけやから」
「はーいはい、うるさいぞ二人とも」
パンパン、と手を叩き、スクラブの上に白衣を羽織った路生が仮眠室からヌッと出てきた。こうしてまともな格好をしていれば、一応まっとうな医師のように見えなくもない……。
「八野路生 先生。同じ大学の出身で、三つ上の三十二歳」
「え? この人年上? 若く見えんね」
「……。研修医時代からこの医療センターで難病治療に関わってはる。ここはドクターの入れ替わりが激しいから、まあまあの古株やな」
「ふうん……」
すたすたとマイペースに歩き出した路生の後ろで、真人は淡々と周にそう説明した。路生はちらりと周を振り返り、横顔でニヤリと笑って見せる。
「そういうこと。で、えーと、ぼくの名前は?」
「ぼく……だと」
「この子は月森周くん、十六歳や。まあ……色々あって飢餓状態のところ、ありがたく捕獲されてくれたっちゅうわけ」
「へぇ……いろいろ、ねぇ」
路生は意味深な笑みを浮かべつつ、『診察室3』と書かれた白いスライド扉を開いた。よくある診察室の風景だが、ここはとても静かだ。早朝の病院といえば、もっと外来患者でごった返していそうなものなのだが。
「なんか、静かだな」
診察用の椅子に座らされ、硬そうなベッドやパソコン、本やファイルの詰まったキャビネット、そして古い人体模型などを見回しながら、周は真人にそう言った。真人はひとつうなずき、「ここは完全予約制やから」と説明した。
「ねぇ、俺の血ってどんな病気に効くの?」
「ああ……まだ説明してへんかったな」
「百聞は一見に如かず、や。近々時間調整するから、入院患者と会ってみたらどうや?」
「いや……俺はいーよ」
真人が説明しかけたところで、路生が会話に割って入ってくる。銀色のトレイに並んだ注射器と採血容器が、かしゃんと目の前のデスクに置かれた。
「げ、こんなに血ぃとられんの?」
「普通の採血と変わらへん量や。調べたいことが山のようにあるから、もっとたっぷり採っておきたいところやけど……」
わざとらしく、バチーンと音を立てながらゴム手袋を装着し、路生はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。どっちが吸血鬼か分かったものではない。注射針を前にした周が完全にビビっていると、真人の手がスッと伸びてきて、柔らかく肩に触れてきた。あたたかな掌に、周はちょっとだけほっとした。
「だから。あんまり周くんを脅かすなって言うてるやろ」
「別に脅してへんやろ。俺もテンション上がってんねんで? こいつ、ほんまに吸血鬼の末裔やねんろ?」
「ああ、そうや」
「もう血、吸ってもらったの? どやった?」
「吸血は……されたけど」
真人が言葉に詰まっている。腕をアルコールで拭われながら、周は首を捻って真人を見上げた。何やら言葉に詰まっているようだが、いったいどうしたと言うのだろう。路生は淡々と採決の準備を進めながら、さらに真人に問いかけた。
「どうしたんや、黙り込んで。ガブリとやられて痛かったんか?」
「ちゃうわ。……まぁ、意外と平気やった。噛まれると同時に麻酔成分みたいなもんが注入されるみたいで、痛みはすぐになくなったから」
「へぇ〜蚊みたいやな」
「蚊と一緒にすんな」
すかさず周がそう言うと、路生は可笑しそうにケラケラと笑っている。周はブスッとむくれた。蚊とヴァンパイアを一緒くたにするとは何事だ。
すると真人はごほん、と咳払いをして、気を取り直したように「しばらく、うちで預かることにしてん。留まってもらう間、僕の血を与えるっていう条件でな」と言う。
「ふーん、なるほどね。しばらくはガキのお守りか……チクッとすんで、動くなよ」
「ガキって言うな。……っ……」
つぷ……と鋭い注射針が皮膚を突き破るが、痛みはさほど感じなかった。まるで、目に見えない皮膚組織の隙間を通しているかのようだ。意外と腕の良い医者なのかな、と周はやや感心し、すぐ目の前にある路生の顔をじっと観察してみる。
体格のせいもあるだろうが、路生は真人よりもずっと若く見える。口さえ開かなければ、品のある顔立ちをした美しい男だ。
さっき仮眠室で男とセックスをしていたが、この男はゲイなのだろうか。真人とこいつの関係はどういうものなのだろうか……などと想像を繰り広げている間に、採血は終わっていた。
「はい、おしまい」
「……おう」
周に小さな絆創膏を貼りながら、路生はニッと笑って見せた。そして、小さな子どもにするようにわしわしと頭を撫でた。
「痛くなかったか? ようがんばったな〜」
「う、うっせーな。こんくらいなんでもねーっつの」
「吸血鬼から採血できる日ぃがくるなんて、おにいさんもびっくりやで〜」
「うう……うぜぇ」
路生のおちょくりきった態度が異様に腹立たしいが、これ以上相手にするのも面倒だ。周は黒いパーカーの袖をぐいと下ろして、さっさと椅子から立ち上がった。これが唯一の周の衣服だ。昨日の夜のうちに真人が洗っておいてくれたのだが、乾燥機にかけられたせいで若干サイズダウンしてしまっている。
「早速、成分分析してみるわ。お前が欲しがるようなデータが出るかどうかは分からへんけどな」
「うん、分かってる」
「一応最優先でやれたらやるけど、今日は新規の患者さんも来はるから、ひょっとしたら時間かかるかもしれん」
「ああ、ええよ。頼む」
事務的な会話を始めた二人である。やることが済んだなら、とっととこんなところおさらばしてやろうと廊下への扉を開きかけたとき、低く抑えた二人の声が、周の耳にするりと忍び込んできた。
「それと……真人は十三回忌、どうするん。一緒に帰るか?」
「……いや、帰れへん、かな。学生の論文提出近いから、忙しいねん」
「……そう。分かった」
――十三回忌……?
共通の知り合いに、故人がいるのだろう。それは大して珍しいことではないのだろうが、いやに親密そうな二人の空気が気にかかる。路生は、周に対してはふざけた態度を取っていたくせに、真人に向けられた視線には隠しようのない親密さが滲んでいるような気がして……それをチラリと目の当たりにしてしまった周の胸は、ざわざわと騒ぎはじめた。
――……って、いやいやいや。なんで俺がそんなこと気にしなきゃいけねーんだよ。関係ねーし。
胸の内に生まれた奇妙な感情に、周はまた少し苛立った。
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